› 今日の言志四録・・知っておきたい言葉

  

2020年02月09日

言志耋録205条 富貴の得方

名の干(もと)めずして来る者は、実なり。利の貪らずして至る者は、義なり。名利は厭うべきに非ず。ただ干むると貪るとを之れ病と為すのみ。

【筆者意訳】自分から求めないで与えられる名誉は、実績の結果である。貪らないで得られた利益は、正しい行為の結果である。このような名誉や利益は遠慮することはない。ただ名誉を自ら求めたり、利益を貪るのは弊害をもたらすだけである。

【ひとこと】周囲が与えてくれた富貴は、ありがたく受けよ。しかし間違っても自分から求めてはならないということですね。
孔子も同じことを言っています。
『論語・里人篇』では、「子曰く、富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。その道を以て之を得ざれば、處(お)らざるなり(人はだれでも裕福になり高い地位に登りたいと願うものだ。しかし君子は、人として正しいやり方によって得るのでなければ、それには満足しない)。」と言い、『論語・述而篇』では、「不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し(不義を働いて富や地位を得たとしても、そんなものは自分にとっては浮雲のようにはかないものだ)。」と言っています。

孔子は、裕福になることや立身出世することを否定はしませんでしたが、それはあくまで人間として正しい行いをした結果として得るべきものであり、我欲や不正をして得るべきものではないと考えていたのです。
孔子に限らず、世の中で誠実に生ようとしている人は、多くがこのように考えているのではないでしょうか。
某国の某大統領のように、我欲で地位を維持するために、周辺国にまで無理難題を押し付けるような人間もいますが、そのようにして得た富貴は、まさに浮雲の如しで、遠からず散り散りになるでしょう。
例え大金持ちになれなくても、大統領になれなくても、正しく誠実な生き方をしたいものです。  

2020年02月08日

言志耋録204条 人の評価は・・・

古人の是非は、之れを品評するも可なり。今人の好歹(こうたい)は、之れを妄議するは不可なり。恨みを取るは、多く妄議に在り。警むべし。

【筆者意訳】昔の人の善悪の評価はしても良い。しかし現存の人の善悪をみだりに論評するのは良くない。人から恨まれる原因は、人をみだりに論評することから起こる。戒めなくてはならない。

【ひとこと】「品評」とは品定め・評価をすること、「好歹(こうたい)」とは善と悪のこと、「妄議」とはみだりに論議すること、ここではみだりに論評すると訳しました。

人の中には、他人のことを論評するのが好きな人がいますね。それを聞くのが好きな人もいて、ちょっとした人だまりが出来たりする。しかし言う方も聞く方も真剣ではないので、中身の薄い話で終わる・・こんなところでしょうか。
しかし、論評される側に立った人間としては、心穏やかではいられないですよね。自分の居ない所で自分が品定めされるのは気持ちがいいものではありません。ましてや悪く評価されたとなれば尚更でしょう。
その話が、後に人づてに本人に伝わると、”あいつ、俺のいない所であんなことを言いやがって~”となり、疑念を持たれることになってしまいます。兎に角、人の悪口を陰で言うのは止めた方がいいですね。

よく、人を誉める時は皆のいる前で、叱る時は対面でするのが良いと言われます。前者は本人の自尊心を満足させる、後者は自尊心を傷つけない配慮が背景にあるのですが、場合によってはこの逆をすることが効果的な場合もあります。つまり、本人を皆のいる前で叱る、本人がいない所で誉めるということです。前者は、例えば本当に自分が信頼している部下を皆のいる前で叱ることでチームを引き締めることを狙って、後者は、例えば自信を失っている部下を陰で誉めて、それが人づてに本人に伝わり、発奮することを期待して行います。どっちもその後のフォローが大切ですが。

人の善性は、良く評価されれば嬉しくなり、より頑張ろうとし、悪く評価されれば、それを直そうとするものだと思います。評価が本人に正しく伝われば、人は善性を発揮するものですが、間違った伝わり方をすると、疑念や反感を呼び起こすことになってしまうのです。
かように人の評価の仕方、誉め方、叱り方は本当に難しいものですが、「自分がされて嫌なことはしない」という原則は守った方がいいように思います。  

2020年02月07日

言志耋録202条 雅事と俗事

雅事は多く是れ虚なり。之れを雅と謂いて之れに耽ること勿れ。俗事は卻って是れ実なり、之れを俗と謂いて之れを忽(ゆるがせ)にすること勿れ。

【筆者意訳】風流事は、多くは虚(実生活に直接関係するものではない)である。これを風流といって没頭してはならない。日常の俗事は実生活で必要なことである。これを俗だといっていい加減にしてはならない。

【ひとこと】「雅事」とは風流なこと、生け花・茶道・香道・琴などの稽古事もこれに入ります。「虚」とは虚飾のこと、ここでは実生活に不可欠なものではないが、生活に潤いを与えるものを意味します。「俗事」とは世俗の雑事のこと、ここでは生活の上での必要な雑事を意味します。

「売り家と 唐様で書く 三代目」という川柳があります。初代が苦労して財産を作って栄えた家も、三代目ともなると遊びごとに耽り商売をないがしろにして、没落して家を売りに出す。その売り家札は、洒落た唐様で書かれているという、本業をないがしろにして風流に没頭する人を皮肉った川柳ですが、本条の前半と同じことを言っています。
後半は、日常の中の取るに足らない雑事でも、生活していくために必要なことなのだから、いい加減にしてはならないという教えですね。

鍵山秀三郎氏の言葉に、「凡事徹底」というのがあります。私も大切にしている言葉です。日常の中で、取るに足らない些細なことでも、手を抜かないでしっかりやっていく。その積み重ねが大きな違いを生み出すことに繋がるという意味と理解をしています。
例えば会社の仕事でも、管理職ともなると、コピーや机の周りの掃除などは事務の女性に任せる人が多いと思いますが、それも自分でやることが私は大切なのだと思います。それによって色々な職場の問題が見えて来ることがあるからです。
プロ野球選手だったイチロー氏も言われました。「小さなことを重ねることが、とんでもない所に行くただひとつの道」と。「凡事徹底」こそが偉大な人間を創るのだと思います。  

2020年02月06日

言志耋録198条 智略と芸能

人、智略有る者、或いは芸能無く、芸能有る者、或いは智略無し。智略は心に在りて、芸能は身に在り。之れを兼ぬる者は少なし。

【筆者意訳】智略(智慧と策略)のある者は芸能(芸術と技能)に乏しく、芸能に秀でたものは智略が乏しい。智略は心にあるが、芸能は身にある。両者を併せ持つ者は少ない。

【ひとこと】「天は二物を与えず」とはよく言ったもので、人夫々に得意分野と苦手分野があり、全てにオールマイティな人は少ないものです。
仕事の進め方でも、最初からしっかりと計画を立てることが得意な人が居ると思えば、とにかく手が付くところから行動に移す人もいます。前者は計画的に進めるので間違いが少ない反面、計画がないと踏み出せないところがあります。後者は勢いで突っ走るので、ぶっちぎりの成果を出すこともある反面、思いがけない大失敗をするところがあります。
どちらが優れているということではなく、夫々に強みと弱みがあるので、両者が上手く補完しあうチームが失敗も少なく、成果も上がる良い組織なのですね。

本条文の智略と芸能も同様に、世の中は両方があって豊かな社会が築かれるもの。夫々の能力を上手く活かすことが大切だと、一斎は語っているのだと思います。  

Posted by 知好楽 at 08:44Comments(0)言志耋録

2020年02月05日

言志耋録197条 徳性・才能と言葉

徳有る者寡言なり。寡言の者未だ必ずしも徳有らず。才有る者多言なり。多言の者未だ必ずしも才有らず。

【筆者意訳】有徳者は寡黙である。しかし寡黙な人が有徳者とは限らない。才能がある人は弁が立つものだ。しかし弁の立つ者が才能がある人とは限らない。

【ひとこと】『論語・憲問篇』に、「徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。勇者は必ずしも仁ならず。」という章句があります。言葉と徳性、仁者と勇者を対比させた文章ですが、本条文は、これと同じ論法で言葉と徳性、言葉と才能を対比させた条文です。

「徳性」と「才能」については、伊與田覺氏が素晴らしい解説をしてくれています。
人間が生まれながらにして与えられて要素には、「徳性」・「知能」・「技能」があり、何れも大切なものであるけれども、人間の本末としては「徳性」が本で「知能」・「技能」は末である。だから人間を立派に育て上げるには、まず本である「徳性」をしっかり養い、それに合わせて「知能」・「技能」を育てることが必要だというのです。
本と末の順番を間違えるのを、「本末転倒」と言いますが、現代の教育はまさにこの状態にあると言えるでしょう。

「知能」・「技能」をまとめて「才能」と言います。一斎は人間にとって大切な二つの要素である「徳性」・「才能」と言葉を対比させて語っているのです。蛇足ながら「徳性」も「才能」も優れ、なお且つ「徳性」>「才能」の人のことを君子、「徳性」<「才能」の人のことを人材というのだそうです。  

2020年02月04日

言志耋録196条 人生を生きる知恵

凡そ剛強の者与みし易く、柔軟の者怕(おそ)るべし。質素の者は永存し、華飾の者は剥落す。人の物と皆然り。

【筆者意訳】強直な性格の人間は相手にしやすいが、柔軟な性格の人間は気を付けなければならない。また飾り気なく地味にしている人は長続きするが、華やかに飾り立てた人は剥げやすい。人も物も皆この通りである。

【ひとこと】本条文の前半は、性格別の付き合い方を言っているのでしょうね。
性格が強直な人は、概して竹を割ったような性格で、物事の善し悪し、好き嫌いがはっきりしていて、それを隠しませんから、判りやすい性格ですね。それを分かった上で付き合えば、相手にしやすい人間でしょう。
しかし、性格が柔軟な人は、穏やかでとっつき易い利点がありますが、その性質が悪い方に現れると、物事を決められないとか、のらりくらりしているとか、どちらに転ぶか分からないところがあります。時に、考えもしなかった行動に出るのもこのタイプが多いでしょう。その意味で注意して付き合わなければいけないタイプだということですね。

本条文の後半は、生活の仕方を戒めているのでしょうね。身の丈に応じて質素に暮らしていれば、大きな富や出世は得られないかもしれないが、末永く安泰に暮らせるということでしょう。反対に身の丈以上に背伸びして、華美な生活をすれば、いつかその頂上から転げ落ちる時が来るということでしょう。
人との付き合い方、生活の仕方、どちらも人生を上手に生き抜く知恵として参考にしたいですね。  

2020年02月03日

言志耋録193条 人物の観察法

多言の人は浮躁にして、或いは人を枉(ま)ぐ。寡黙の人は測り難く、或いは人を探る。故に「その言を察して、その色を観る」とは、交際の要なり。

【筆者意訳】口数の多い人は浮かれて騒がしく、時には人を傷つける。口数の少ない人は心中を察し難く、時には人の心中を探ろうとしている。だから孔子の言う「人の言葉を洞察し、顔色を注意深く観察する」とは、まさに交際上の要諦である。

【ひとこと】「浮躁」とは浮かれ騒ぐこと、「枉(ま)ぐ」とは虐げたり陥れること、ここでは傷つけると訳しました。
『論語・顔淵篇』に、「夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以て人に下る。」という一節があります。”本物の達人(立派な人物)というのは、実直で道義を重んじ、人の言葉を注意深く聞いて表情をよく読み、遠慮してへりくだった態度でいるものだ。”という訳になりますが、一斎はこの前半部の、人を正しく評価する見方の部分を取り出して教訓としているものです。

確かに口数の多い人はうるさく感じられ、口数が少ない人は何を考えているのかわからないと感じられます。そのような相手に対しては、話の内容と表情を注意深く観察して、真意を洞察することが必要ですね。孔子の人間通が伺われる言葉です。

尚、孔子の言う達人になるためには、
①真正直であること
②道義を大切にすること
③洞察力に優れること
④謙譲の精神を持つこと
です。こちらも大切にしたい教えですね。  

2020年02月02日

言志耋録192条 話は内容が大事

言語の道、必ずしも多寡を問わず。ただ時中を要す。然る後人その言を厭わず。

【筆者意訳】言葉は、その多い少ないが重要なのではない。内容が的を射ていることが重要なのだ。そうであれば、聞く人は言葉の多いのを嫌がらないものだ。

【ひとこと】「時中」とは、その時と場合に於いて適正・的確であることです。ここでは簡単に、的を射ると訳しましたが、言うべき時に、言うべき事を、適正に言うという意味で使っています。

『論語・衛霊公篇』に、「与(とも)に言うべくして之と言わざれば、人を失なう。与に言うべからずして之と言えば、言(げん)を失なう。知者は人を失なわず、亦言を失なわず。」という章句があります。”言うべき時に言うべきことを言わないと、人からの信頼を失う。言うべきでない時に言うべきでないことを言うと、失言とされる。知恵のある人は、人の信頼を失わず、失言することもない。”という意味ですが、この章句は、人の発する言葉について重要な教えを含んでいます。

人偏「イ」に「言」を書いて、「信」という漢字になります。つまり人というのは、発する言葉によってお互いの信頼をつないでいくことを表しています。ですから、「人」を失う、「言」を失うということは、「信(まこと)」を失うこと、即ち人を信頼する心を失うことにつながります。それ程、人の言葉というものは重い意味を持つということなのですね。たかが言葉という勿れ、それは人間同士が、「信頼」という石垣を築く石なのです。  

2020年02月01日

言志耋録191条 「多弁」より「多聞」

人の言を聴くことは、則ち多きを厭わず。賢不肖と無く、皆資益有り。自ら言うことは、則ち多きこと勿れ。多ければ則ち口過有り。又或いは人を誤る。

【筆者意訳】人の話を聞くことは、どんなに多くても厭わない。話し手が賢いか否かに関わらず、自分のためになる。しかし自分が話すときは多すぎてはいけない。とかく口数が多いと失言したり、人に迷惑をかけることになる。

【ひとこと】「賢不肖」とは賢人と愚人のこと、ここでは賢いか否かに関わらずと訳しました。「資益」とは役に立つこと、ためになることです。「口過」とは口が過ぎること、失言のことです。「人を誤る」は人を誤らせること、ここでは人に迷惑をかけると訳しました。

「多弁」の人ではなく、「多聞」の人になれという教えですね。
自分がいくら雄弁で沢山話したとしても、それで自分の見聞が広がったり、成長したりすることはありません。上手くいって精々”自分の言いたいことを全部言った”という満足感を得るぐらいの所でしょう。そうでなければ、言わなくても良いことを言って失言となるか、相手をうんざりした気持ちにさせて迷惑をかけるだけです。ですから自分から話すときは、必要なことを抑え気味に話すことが大事なのです。

自分の見識を広め、成長したいと願ったら、人の話を聞くことです。興味を持って聴けば、相手はどんどん話してくれます。その中で、自分のためになると思ったことを記憶していけばいいのです。
孔子も『論語・述而篇』で言っています。「多くを聞きて、その善きものを択びて是に従う」と。
  

2020年01月31日

言志耋録188条 忠と恕(その2)

妄念起る時、宜しく忠の字を以て之れに克つべし。争心起る時、宜しく恕の字を以て之れに克つべし。

【筆者意訳】みだらな邪念が起きた時は、「忠」の字を思い出して自分自身に打ち克たなければならない。また人と争う気持ちが生じた時は、「恕」の字を思い出して克服しなければならない。

【ひとこと】昨日のコラムで紹介したように、「忠」とは自分に向けた誠・真心のこと、自分の良心に嘘をつかないことです。また「恕」とは他人に向けた真心のこと、人を思いやることです。
「妄念」は自らの心の中に沸き起こる邪念や欲望です。それを克服するのは他人ではなく、自分の内なる良心=自分に向けた誠・真心です。
一方、「争心」は他人との関係に於いて沸き起こる心です。それを克服するのは、他人に向けた真心=思いやりの心だと一斎は言っています。

「妄念」も「争心」も、人間であれば誰でも起る心でしょう。それを当然のこととして突っ走ってしまえば破滅に至るだけです。それを抑えるのが理性というものです。理性は即ち「真心」に他なりません。
「忠」も「恕」も、人が人と関わる中で、人間として正しく生きていくために、欠くことのできない大切な心なのです。  

Posted by 知好楽 at 08:46Comments(0)言志耋録キーワード/心