2020年03月09日
言志耋録340条 魂の懐に帰る
我が軀は、父母全うして之れを生む。当に全うして之を帰すべし。臨歿(りんぼつ)の時は、他念有ること莫れ。ただ君父の大恩を謝して瞑(めい)せんのみ。是れ之れを終わりを全うすと謂う。
【筆者意訳】自分の身体は、父母が完全な形で生んでくれたものであるから、完全な形で返さなければならない。臨終の時は、外のことを考えることはない。ただひたすら、父母の大恩を感謝して眠るだけである。これを終わりを全うするというのだ。
【ひとこと】『言志耋録』の最後の章です。また『言志四録』1133章の最後を締めくくる章でもあります。
旅立つ時は、何も考えずに、ただ父母から受けた大恩に感謝して息を引き取ればいいと、一斎は教えてくれます。
自分の真心に従って精一杯に生きて、死ぬ間際に”いい人生だった”と納得することが出来れば、こういう心境になれるのかもしれませんが、今の私には分かりません。しかし、そうありたいものだと思います。
沢庵禅師の詩に、「たらちねに 呼ばれて仮に 客に来て 心残さず 帰る故里」というのがあります。「たらちね」とは母親のことですが、父母と考えてもいいでしょう。
私たちは、あの世(この言い方が適切ではないと思いますが、魂の懐の意味あいで使います)から、父母に呼ばれて現世に来た。現世は魂の修養をする場所、今の姿は修養するための仮の姿であり、修養(=人生)が終われば、何事にも執着しないであの世(=魂の故里)に帰っていく・・・このように言っています。即ち現世は魂の修養の場、その場に呼んで修養の支援をしてくれたのは父母。その大恩に感謝して、父母の待つ魂の懐に帰るのだと、私は一斎の本条文を理解したいと思います。
【筆者意訳】自分の身体は、父母が完全な形で生んでくれたものであるから、完全な形で返さなければならない。臨終の時は、外のことを考えることはない。ただひたすら、父母の大恩を感謝して眠るだけである。これを終わりを全うするというのだ。
【ひとこと】『言志耋録』の最後の章です。また『言志四録』1133章の最後を締めくくる章でもあります。
旅立つ時は、何も考えずに、ただ父母から受けた大恩に感謝して息を引き取ればいいと、一斎は教えてくれます。
自分の真心に従って精一杯に生きて、死ぬ間際に”いい人生だった”と納得することが出来れば、こういう心境になれるのかもしれませんが、今の私には分かりません。しかし、そうありたいものだと思います。
沢庵禅師の詩に、「たらちねに 呼ばれて仮に 客に来て 心残さず 帰る故里」というのがあります。「たらちね」とは母親のことですが、父母と考えてもいいでしょう。
私たちは、あの世(この言い方が適切ではないと思いますが、魂の懐の意味あいで使います)から、父母に呼ばれて現世に来た。現世は魂の修養をする場所、今の姿は修養するための仮の姿であり、修養(=人生)が終われば、何事にも執着しないであの世(=魂の故里)に帰っていく・・・このように言っています。即ち現世は魂の修養の場、その場に呼んで修養の支援をしてくれたのは父母。その大恩に感謝して、父母の待つ魂の懐に帰るのだと、私は一斎の本条文を理解したいと思います。