› 今日の言志四録・・知っておきたい言葉

  

2020年02月19日

言志耋録259条 趣味嗜好も使い方次第

上官たる者は、事物に於いて宜しく嗜好無かるべし。一たび嗜好を示さば、人必ず此れを以て夤縁(いんえん)す。ただ義を嗜み善を好むは、則ち人の夤縁もまた厭わざるのみ。

【筆者意訳】人の上に立つ者は、物事について、「好み」があってはならない。一度でも自分の「好み」を示すと、人はそれを手掛かりに利得を求めて来るからだ。しかし正義や善を好むというのであれば、人がいくら伝手を求めて来ても避けることはない。

【ひとこと】「夤縁(いんえん)」とは、つたが絡み連なる様子、転じて、利得を求めて付きまとうこと、伝手を求めることを言います。

これは、”使われる立場の人間”の卑しい性を言ったものですね。寂しいことですが・・・。
今の若い人は違うと思いますが、かつて、”24時間闘えますか・・”というCMが流行した時代がありました。所謂「企業戦士」がもてはやされた時代です。
この時代には、上司がゴルフ好きならば、休日ゴルフに付き合い、酒が好きならば、はしご酒に付き合うということがありました。オフタイムも上司と一緒に行動して人間関係を深め、それが組織力を高め仕事の成果につながり、自分も昇進を果たしていく・・・こういう循環が是とされていたのです。
経済が右肩上がりの当時ではそれでよかったのかもしれませんが、現在では通用しないでしょう。それは公的関係と私的関係の境界が曖昧となって、組織運営上や人事処遇上の公平性に疑念が出るからです。

しかし、仕事だけの付き合いではギクシャクすることがあります。時には職場でパーティーをしたり、趣味嗜好の会を設けたりするのは、職場の潤滑剤として必要なこともあるでしょう。
上司としては、自分の趣味嗜好を隠す必要はないけれども、それを部下以上に強調したり、押し付けたりしない配慮が必要でしょうね。要は趣味嗜好も上手く使って組織運営をすればいいのであって、そのためには節度を持った関係が必要ということだと思います。  

2020年02月18日

言志耋録255条 自分のことを棚に上げるな

人君たる者は、臣無きを患うること莫く、宜しく君無きを患うべし。即ち君徳なり。人臣たる者は、君無きを患うること莫れ。宜しく臣無きを患うべし。即ち臣道なり。

【筆者意訳】人の上に立つ者は、優秀な部下がいないことを嘆くのではなく、自分自身が立派な上司であるかどうかを反省すべきである。それが上司の人徳というものだ。また、部下たる者は、立派な上司がいないことを嘆くのではなく、自分自身が果たして良い部下であるかどうかを考えるべきである。それが部下としての務めである。

【ひとこと】本条文も昨日同様に、現代風に訳しました。
上司も部下も、相手のことを云々する前に、自分が上司として、又は部下としてどうなのかを問いなさいと言うことですね。

子供は親の鏡、部下は上司の鏡と言いますが、経験上言えることは、ダメな上司からは、出来る部下が育つことはないということですね。ですから、優秀な部下が居ないと嘆いている上司は、自分の無能を公言しているようなものです。

反対に部下の立場から言えば、”ウチの上司はダメだ”と嘆き、それを成果が出ない言い訳にしているようでは失格ですね。上司が頼りない時は、自分の力を発揮できる時だと考えて、どんどん提案なりアピールなりしていけばいいのです。そうすれば自分の存在価値を高めることが出来るし、上司を上手く使えば自分のやりたいことが出来るのです。

何事も、成果が出せるか否かは、つまるところ他人の問題ではなく、自分の問題なのだということですね。  

2020年02月17日

言志耋録252条 上司と部下の関係

人君たる者は、宜しく下情に通ずべきは、固よりなり。人臣たる者も、また宜しく上情に通ずべし。則(しか)ざれば諫諍(かんそう)も的ならず。

【筆者意訳】人の上に立つ者は、常に部下の実情を把握しておくべきである。また、部下たる者も、上に立つ者の実情を理解しておく必要がある。そうでないと、上位者を諌める場合にも的外れになってしまう恐れがある。

【ひとこと】一斎は、当時の武家階級の、人君=城主、人臣=家来を念頭に置いて本条文を語ったものと推察しますが、私は現代に合わせて、人君=人の上に立つ者(上司でも可)、人臣=部下と解しました。そのように解釈すると、本条文の趣旨は現代でも十分通用するものとなります。

組織機能的に言えば、上司は指示命令を発する者、部下は指示命令に従う者となりますが、人間が組織を構成している以上、それだけの関係では上手くやっていけません。
上司は、実際に仕事をする部下の状況や苦労を理解し、部下が気持ちよく仕事ができるように配慮しなければなりません。反対に部下の立場からは、上司の状況や苦労も理解するように努め、気持ちよく指示が受けられるようにすることが大切です。つまり、相互に理解しあえる関係を造ることが大切で、そうすれば多少の無理や苦情も、率直に言えるし聴けるでしょう。それが好ましい上下関係だということですね。

『論語・子路篇』にも、「君たること難し、臣たること易からず。もし君たることの難きをを知らば、一言にして邦を興すにちかからずや。」という一節があります。”主君となることは難しく、臣下となることも容易ではない。もし貴方が主君としての有り方の難しさを理解し、その上で言葉を発するようにすれば、貴方の一言一言は臣下を奮い立たせるでしょう。そうすればたった一言でも邦を盛んにすることが出来るでしょう。”という意味になりますが、上に立つ者が下位者の苦労を察し、心を配って言葉を発することの大切さを語ったものです。
いつの時代でも、部下は自分を理解してくれる上司がいて熱心に働き、上司は自分を理解してくれる部下を重用するのです。  

2020年02月16日

言志耋録239条 本物は、「らしく」ない

真勇は怯(きょ)の如く、真智は愚の如く、真才は鈍の如く、真巧は拙の如し。

【筆者意訳】真の勇者は一見すると臆病者のようであり、真の智慧者は一見すると愚者のようであり、真に才能ある者は一見すると鈍物のようであり、真の功者は一見すると下手くそのようである。

【ひとこと】『老子・道徳教』に、「大直(たいちょく)は屈するが若く、大功(たいこう)は拙(せつ)なるが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。」という一節があります。”本当に真直ぐなものは曲がってるように見え、本当に巧みなものはつたなく見え、本当の雄弁は口下手のように聞こえる。”と訳されますが、本条文もそれに倣い、勇者⇔臆病者と反対語を対比させて表現をした文章です。一見、戸惑うところがありますが、順に見ていきましょう。

本当に勇気のある者は、勇ましさを外に表さずに慎み深くしているものです。それは一寸見では臆病なように見えます。本当に智慧の有る者は、軽挙妄動しないで深く考えるものです。その様子は一寸見では愚か者のように見えます。本当に才能の有る者は、その才能をいたずらにひけらかさないので、あたかも才能が無いように見えます。本当に技術を持っている巧者は、ことを簡単に処理してしまうのでその上手さが素人には分かりません。それがあたかも下手くそのように見えるということですね。

最後の巧者を例にすると、野球の外野手で本当に上手い選手は、ピッチャーの配球やバッターの特性、試合の流れなどを読んで、打球が飛んできそうな場所に守備位置を取るそうです。それが的中する確率が高いので、走らなくても簡単に捕球してしまいます。全力疾走してランニングキャッチするようなファインプレーはあまり見せないので、その真価が素人目ではわからないけれども、プロが見れば技術に秀でていることは一目瞭然だと言われます。

勇者、智者、才者も同様な事例は思い当たることがあるのではないでしょうか。
本物は自然体で処すものです。派手なパフォーマンスで自己主張している内は、まだまだ半人前と言うことでしょうね。
  

2020年02月15日

言志耋録233条 人間らしさとは

天は測るべからずして、而(しか)も或いは測るべし。人は測るべくして、而も測るべからず。

【筆者意訳】天地自然の現象は、これを予測することが難しいようであるが、時には予測することが出来ることもある。人の行動は予測することが出来るようであるが、時には予測することが出来ないこともある。

【ひとこと】自然現象の中にも、予測が出来ないものと、比較的予測が容易なものがあります。地震や火山噴火などは現代の科学技術をもってしても予測が難しいものです。反対に短期の気象予測、特に台風の進路予測などは、スーパーコンピューターを使ったシュミレーション技術の向上で非常に精度高く予測できるようになりました。自然現象というのは、必然の摂理があって起こるものであり、人間の知見や解析技術が進歩すれば予測可能な領域が広がってくるものです。

翻って人間の行動を予測することについてはどこまで可能なのでしょうか?付き合いが深くなれば、その人の人柄や嗜好、思考パターンが解ってきますので、ある程度の予測はできるようになるでしょうが、例え自分の子供でも完全に予測することは難しいのではないでしょうか。
つまり人間には、意志や思考、感情という、外からは窺い知ることが出来ない「心」があり、それは時の経過や状況により変化していくものです。このため、いくら親しくなったとしても予測できない部分は残るものです。寧ろ、そこにこそ人間らしさがあると言えるのかもしれません。
まあ、相手のことが全部予測できてしまったら、付き合いもつまらなくなるでしょうし、予測を裏切る意外性が関係を新鮮にすることもあるでしょうから、相手を知るのも程々がいいのでしょうね。  

Posted by 知好楽 at 07:25Comments(0)言志耋録キーワード/心

2020年02月14日

言志耋録217条 交友の妙

世には、未だ見ざるの心友有り。日に見るの疎交有り。物の睽合(けいごう)は、感応の厚薄に帰す。

【筆者意訳】世間には、一度も会ったことが無くても、心の通じ合う友がいる。反対に毎日会っていても、表面だけの付き合いに過ぎない人もいる。ものごとの離合というものは、結局、心の感応の厚薄で決まるものなのだ。

【ひとこと】「心友」とは心の通じ合った友人のこと、「疎交」とは表面だけの交わりのこと、「睽合(けいごう)」とは離合、離れたり合ったりすることを言います。

最近はTwitterやFacebookなどのSNSが汎用化していますから、まだ一度も会ったことがない人、遠く離れた海外にいる人とも手軽にコミュニケーションを取ることが出来ます。その中には、生き方や考え方に共感して親しい友人になる人もいるでしょう。
社会的に見れば、SNSを悪用した犯罪も増えるなど、負の側面もありますが、個人のコミュニケーション空間を地球規模に拡大した点は革命的だと思います。是非有効に使って、友人を増やしていきたいものです。

心友とは少し違いますが、本の世界も同様なことがあります。感銘を受けた本、自分の人生を変えるきっかけになった本など、人生には本を通じた著者との出会いがあります。その中には、著者を「師」として尊敬する関係が生まれることもあります。時間と空間を超えた師弟関係ですね(多くは一方的なものですが)。

反面、いくら長く頻繁に接していても、付き合いが深まらない人もいます。敢て避けているわけでもなく、さりとて親交を深めたいとも思えない・・・。
一斎が言うように、結局のところ、人間関係は心が響きあうか否かなのでしょうね。それを一般的には”相性が合う”と表現するのだと思います。まさに交友の妙ですね。
  

2020年02月13日

言志耋録216条 毀誉得失に捉われない

毀誉得喪は、真に是れ人生の雲霧なり。人をして混迷せしむ。此の雲霧を一掃すれば、則ち天青く日白し。

【筆者意訳】毀誉得失は人生における雲や霧のようなものである。これらは人を惑わせる。この雲や霧を一掃することができれば、青い空に太陽が輝くように人生も快晴となる。

【ひとこと】「毀・誉・得・喪」とは夫々、不名誉(人から非難を受けること)・名誉(人から褒め称えられること)・成功・失敗のことです。この四つは人の心を躍らせたり落ち込ませたり、勢いづかせたり悩ませたりします。それはあたかも雲や霧のようだと一斎は言います。
そして、心にかかる雲や霧を一掃することが出来れば、晴れ晴れとした心で人生を送ることが出来ると言うのです。

では、どうすれば心の雲や霧を払うことが出来るのか。一斎は語っていませんが、私は次のように考えます。
もとより「毀・誉・得・喪」は、自分の力が及ばないところで起るものです。自分が出来るのは、非難されないよう、失敗しないように注意し努力する所までです。その先は天に任すか、人に任すしかないのです。
そのように考えれば、結果としての「毀・誉・得・喪」を問題にするのではなく、自分が最善を尽くし得たか否かを問題にすべきであることが解ります。
もちろん最初からパーフェクトなどということは、まずありません。その中で反省をし、次に活かしていく。その積み重ねが霧や雲海を突き抜け、視界の開けた高みへと、自分を導くことになるのだと思います。
  

2020年02月12日

言志耋録213条 自分が善いと考えることを行う

毀誉は一套なり。誉は是れ毀の始、毀は是れ誉の終なればなり。人は宜しく誉を求めずして、その誉を全うし、毀を避けずしてその毀を免るべし。是れを之れ尚しと為す。

【筆者意訳】毀(非難)と誉(名誉)は一対のものである。名誉は非難の始まりであり、非難は名誉の終わりだからである。人は最初から名誉を求めようとしないで、誉められるような行いを十分に為し、非難を避けようとしないで、非難されないようにするがよい。これが最も良いやり方である。

【ひとこと】人の評価を気にするのではなく、自分が正しいと考えること、善いと考えること、必要だと考えることをしなさい。人の評価はその結果でついてくるものだという教えですね。

時々、「自分の力(又は実績)を、人は評価してくれない」と愚痴る人が居ますが、それは大きな勘違いです。そもそも自分の評価は自分がするものではなく、他人が決めるもの。それに満足出来ようが出来まいが、他人からの評価を是として受け入れるところから、全てが始まるのです。

しかし、自分がやることが正しいか、善いか、必要かを判断するのは、他人ではなく自分です。
ですから人は、その判断力と行為の是非を評価するわけです。
自分の判断に基づいて行動する。その結果としての他人の評価を受け入れる。評価に基づいて自分の判断と行動を反省する。それを次の判断や行為に活かしていく。
つまり、自分の判断⇒自分の行為⇒他人の評価⇒判断・行為の見直し⇒次の判断・行為・・・と所謂PDCAサイクルを回していくことが大切なのだと思います。  

2020年02月11日

言志耋録211条 名声も非難も成長の糧

名有る者は、その名に誇ること勿れ。宜しく自らの名に副う所以を勗(つと)むべし。毀(そしり)を承くる者は、その毀を避くること勿れ。宜しく自ら毀を来す所以を求むべし。是くの如く功を著けなば、毀誉(きよ)並びに我に於いて益有り。

【筆者意訳】名声を得た者は、それを自慢してはならない。その名声に相応しい振る舞いをするように努めなければならない。世間から非難された者は、それを避けてはならない。非難を受けた理由を考えなければいけない。このように心掛けるのであれば、名声も非難も、自分にとって意味のあるものとなる。

【ひとこと】「勗(つと)む」とは努力し励むこと、「名に副う」とは名声に相応すること、「功を著ける」とは工夫を積むこと、ここでは心掛けると訳しました。

『論語・衛霊公篇』に、「君子は矜(おごそか)にして争わず。」という一節があります。”君子は自分の立場に誇りを持って厳正な態度を貫くが、それがために人と争うことはない。”という意味ですが、本条文の前半部と通じるところがあると思います。
「地位が人を造る」という言葉もありります。組織で相当の地位に就くと責任感が生まれて、自己啓発をして成長することを言ったものですが、普通の人間であれば、そのようにすると思います。
「立場」・「地位」は、「名声」に通じるものですから、置き換えて読めば、条文の前半部と同様な趣旨になると考えられます。何れにしても、「地位」や「名声」に驕ることなく、それにふさわしい自分を造り上げていくことが大事だということですね。

後半部はその逆です。非難を受けた時に、反発したり委縮してしまったりしないで、冷静に理由を考えて、自分を正すように考えることが大切だということですね。
  

2020年02月10日

言志耋録210条 似て非なるもの(その2)

遊惰を認めて以て寛裕と為すこと勿れ。厳刻を認めて以て直諒と為すこと勿れ。私欲を認めて以て志願と為すこと勿れ。

【筆者意訳】怠けてぶらぶらしている人を見て、おおらかで悠然とした人と見誤ってはならない。厳しく容赦のない人を見て、一本気で正直な人と見誤ってはならない。私欲に走る人を見て、志を遂げようとしている人と見誤ってはならない。

【ひとこと】世の中には、似て非なるものが沢山ある。それを見誤るなという教えですね。
「遊惰」、「厳刻」、「私欲」、どれもちょっと見ただけでは良さそうに見えるものです。
何もしないでぶらぶらしている人は、こせこせしないで大らかに生きているように見えます。しかしよくよく観察すれば、何もすることがないか、何もしようとしていないことが解ります。
何事にも厳しく臨み手加減しない人は、筋の通った正直者に見えます。しかし少し長く付き合えば、理屈好きの頭でっかちや、融通の利かない頑固者であることが解ります。
皆の為、国の為と言いながら、自分の利益はちゃっかり確保している人間の多いこと・・・。

しかし、我が身を振り返ってみれば、どれも思い当たる事ばかりです。
やる気が起きないときに、”焦ってもしょうがないよ”と言い訳したり、自分の不満を相手にぶつけて、”これは、あなたの為に言ってるんだよ”と正当化したり、”会社の為にやるんだ”と自己弁護しながら非情なことをしたり・・・。
本条文の一斎の言葉は、人を見誤らない教訓であると同時に、自分の行動を自省する教訓として受け止めたいと思います。