2020年01月30日
言志耋録187条 忠と恕(その1)
忠の字は宜しく己に責むべし。諸れを人に責むること勿れ。恕の字は宜しく人に施すべし。諸を己に施すこと勿れ。
【筆者意訳】「忠」とは誠・真心のことであるから、真心であるかどうかを自分に問いただすのはいいが、人に強要してはならない。「恕」とは思いやりのことであるから、人に施すべきものであり、自分に思いやりをかけてはならない。
【ひとこと】「忠恕」を説明している条文ですね。
『論語・里仁篇』に、弟子の曽子が、孔子の一貫した生き方を、「夫子の道は忠恕のみ」と語った一節がありますが、「忠恕」は孔子の求めた「仁」の究極と言われています。「忠」とは、「中」と「心」から成り立つ字で、真ん中の心=真心のこと。自分の誠を尽くすことです。
「恕」とは、「如」と「心」から成り立つ字で、如心=人の心を推しはかる心のこと。他人の身になって思いやることです。
つまり、「忠」は自分自身に向かう心、「恕」は人に向かう心ですから、一斎は夫々の心の向け先を間違えてはならないと語っているのですね。
現代では「忠」の字は、「忠実」とか「忠誠」といった熟語として使われますので、他人に対して心から従うような意味合いで理解されることが多いかもしれませんが、本来は己の誠を尽くすこと、自分の良心に嘘をつかないことを意味する字なのです。
その心で人に接した時に、人に対しても誠を尽くし、思いやりをもって接することが出来る、即ち「恕」になるのです。
【筆者意訳】「忠」とは誠・真心のことであるから、真心であるかどうかを自分に問いただすのはいいが、人に強要してはならない。「恕」とは思いやりのことであるから、人に施すべきものであり、自分に思いやりをかけてはならない。
【ひとこと】「忠恕」を説明している条文ですね。
『論語・里仁篇』に、弟子の曽子が、孔子の一貫した生き方を、「夫子の道は忠恕のみ」と語った一節がありますが、「忠恕」は孔子の求めた「仁」の究極と言われています。「忠」とは、「中」と「心」から成り立つ字で、真ん中の心=真心のこと。自分の誠を尽くすことです。
「恕」とは、「如」と「心」から成り立つ字で、如心=人の心を推しはかる心のこと。他人の身になって思いやることです。
つまり、「忠」は自分自身に向かう心、「恕」は人に向かう心ですから、一斎は夫々の心の向け先を間違えてはならないと語っているのですね。
現代では「忠」の字は、「忠実」とか「忠誠」といった熟語として使われますので、他人に対して心から従うような意味合いで理解されることが多いかもしれませんが、本来は己の誠を尽くすこと、自分の良心に嘘をつかないことを意味する字なのです。
その心で人に接した時に、人に対しても誠を尽くし、思いやりをもって接することが出来る、即ち「恕」になるのです。
2020年01月29日
言志耋録184条 他山の石
人我れに同じき者有り。与に交わるべけれども、而もその益を受くること甚だ多からず。我れに同じからざる者有り。また与に交わるべけれども、而もその益は則ち尠(すくな)きに非ず。「他山の石、以て玉を磨くべし」とは、即ち是れなり。
【筆者意訳】性格や嗜好が自分と同じような人と交際するのは、勿論いいけれども、あまり自分の為にはならない。自分と異なる性格や嗜好を持った人と交際するのも勿論良い。しかも自分の為になることが多いものだ。「他山の粗石でも、我が玉を磨くには十分に役に立つ」とは、こういうことを言っている。
【ひとこと】「他山の石」という言葉は、わが国でも、例えば”○○会社の失敗を他山の石として~”というような使い方で使われることがありますが、この趣旨には、”他人の失敗事例を参考にして、自分の修養に役立てる”という意味合いがあります。
しかし、本来の意味は少し違います。出典は、中国の古典『詩経/小雅・鶴鳴篇』で、他国から迎え入れた花嫁を祝福する詩の末尾の言葉、「他山の石も、以て玉を磨くべきならん」が取り出されて諺として使われるようになったものです。
詩の中では、”他国(田舎を意味する?)から嫁いできた娘も、玉を磨く砥石のような立派な妻となるだろう”という意味ですが、それが転じて、”よその山から出た質の悪い石でも、自分の玉を磨くのに役立てることができる”という意味で使われるようになりました。ちなみに中国では、「石」はどこにでもあるような石のことで、翡翠のような価値ある石のことは「玉(ぎょく)」と表現します。
我国での意味合いは、「他人の誤った言動(=よその山のつまらない石)でも、自分の修養の助けとなる(=自分の立派な玉を磨くのに使える)」という連想から成立したものと思われますが、人の失敗談を事例にする話なので、使い方には注意が必要ですね。
【筆者意訳】性格や嗜好が自分と同じような人と交際するのは、勿論いいけれども、あまり自分の為にはならない。自分と異なる性格や嗜好を持った人と交際するのも勿論良い。しかも自分の為になることが多いものだ。「他山の粗石でも、我が玉を磨くには十分に役に立つ」とは、こういうことを言っている。
【ひとこと】「他山の石」という言葉は、わが国でも、例えば”○○会社の失敗を他山の石として~”というような使い方で使われることがありますが、この趣旨には、”他人の失敗事例を参考にして、自分の修養に役立てる”という意味合いがあります。
しかし、本来の意味は少し違います。出典は、中国の古典『詩経/小雅・鶴鳴篇』で、他国から迎え入れた花嫁を祝福する詩の末尾の言葉、「他山の石も、以て玉を磨くべきならん」が取り出されて諺として使われるようになったものです。
詩の中では、”他国(田舎を意味する?)から嫁いできた娘も、玉を磨く砥石のような立派な妻となるだろう”という意味ですが、それが転じて、”よその山から出た質の悪い石でも、自分の玉を磨くのに役立てることができる”という意味で使われるようになりました。ちなみに中国では、「石」はどこにでもあるような石のことで、翡翠のような価値ある石のことは「玉(ぎょく)」と表現します。
我国での意味合いは、「他人の誤った言動(=よその山のつまらない石)でも、自分の修養の助けとなる(=自分の立派な玉を磨くのに使える)」という連想から成立したものと思われますが、人の失敗談を事例にする話なので、使い方には注意が必要ですね。
2020年01月28日
言志耋録183条 人を棄てるな
人各々長ずる所有りて、恰好の職掌有り。苟もその才に当たらば、則ち棄つべきの人無し。
【筆者意訳】人夫々に長所があって、その人に合った役目があるものだ。人を適材適所で使えば、棄てられる人などいない。
【ひとこと】「恰好」とは、ぴったりと合うことです。「その才に当たる」とは、その人の才能に合うという意味、ここでは適材適所で使うと訳しました。
「天に棄物なし」という名言があります。天地間に存在するあらゆるものには、存在に足る意味があり、無意味・無用な存在など無いという意味です。植物でも、どんなに小さな虫でも、意味のある存在です。いわんや人間に於いて、棄てられるべき人間などいるはずがありません。
ただ、人間には、得意とするところ苦手とするところが誰にでもあるから、その人が活きる使い方をしなければいけないということですね。
しかし一方で人間は、思考するという能力を与えれらた存在ですから、孔子が、「命を知らざれば、以て君子たること無きなり」と語ったように、自分の役割を自ら求めて生きるべき存在でもあります。
世の中には、少し冷静に考えれば抑えることが出来た欲望や感情を爆発させて、人生を台無しにしてしまう人もいます。最近は、この類の事件に触れることが多くなりました。折角人間に生まれさせてもらって、世の為人の為に役立つようにと送り出されても、自分で自分を棄ててしまう人間を何といえばいいのでしょうか。天が泣いています。
【筆者意訳】人夫々に長所があって、その人に合った役目があるものだ。人を適材適所で使えば、棄てられる人などいない。
【ひとこと】「恰好」とは、ぴったりと合うことです。「その才に当たる」とは、その人の才能に合うという意味、ここでは適材適所で使うと訳しました。
「天に棄物なし」という名言があります。天地間に存在するあらゆるものには、存在に足る意味があり、無意味・無用な存在など無いという意味です。植物でも、どんなに小さな虫でも、意味のある存在です。いわんや人間に於いて、棄てられるべき人間などいるはずがありません。
ただ、人間には、得意とするところ苦手とするところが誰にでもあるから、その人が活きる使い方をしなければいけないということですね。
しかし一方で人間は、思考するという能力を与えれらた存在ですから、孔子が、「命を知らざれば、以て君子たること無きなり」と語ったように、自分の役割を自ら求めて生きるべき存在でもあります。
世の中には、少し冷静に考えれば抑えることが出来た欲望や感情を爆発させて、人生を台無しにしてしまう人もいます。最近は、この類の事件に触れることが多くなりました。折角人間に生まれさせてもらって、世の為人の為に役立つようにと送り出されても、自分で自分を棄ててしまう人間を何といえばいいのでしょうか。天が泣いています。
2020年01月27日
言志耋録182条 市井に人物有り
有りて無き者は人なり。無くして有る者もまた人なり。
【筆者意訳】世の中に人は沢山いるが、立派な人物は中々いない。しかし、居ないようで居るのも立派な人物で、どこかに必ず居るものだ。
【ひとこと】『論語・顔淵篇』に、孔子が弟子の子張に対して、「達人」と「聞人」との違いを説明した章句があります。原文は長いので要点だけ解説しますと、「達人」とは、優れた観察力・洞察力を持って事に当たり、真心があり正義を大切にし、人に対しては誠実と謙譲の精神を持って接することが出来る人のことです。一方で「聞人」とは、上辺は人格者のように要領よく振舞い、見栄えはいいけれども行動は伴わない人物のこと、所謂見かけ大事の人のことです。
私たちの周りでも、「聞人」に該当する人物は沢山います。有名な芸能人で売れっ子になっているけれども、裏で麻薬を常習したり、不倫をしたり。大臣に抜擢されるような政治家が、裏で怪しいお金に手を染めたり配ったり・・・。このような人は、一時は注目を浴びることがあっても、長い人生の中では、いずれ忘れ去られていくでしょう。
反対に、名前も知られず、地位も無いけれども立派な生き方をしている人もいます。ふとしたきっかけから有名人になってしまいましたが、ボランティア活動をずっと続けておられる尾畑さん。災害現場で我が身の危険も顧みず人身救助に務めるレスキュー隊の皆さんなど。これ以外にも私たちの身の回りを注意して観れば、人の嫌がる事をいつも率先してやってくれるご近所さんなど、世の為人の為に汗を流すことを厭わない人が居るはずです。私はこういう人のことを「達人」というのだと思います。
歴史上の偉人や有名人の人生論から学ぶことも大切ですが、身の回りで立派な生き方をしている人を見つけ、その人から学ぶことも生きた学問として大切なことです。「人に学び、人と成らん」。心掛けたいものです。
【筆者意訳】世の中に人は沢山いるが、立派な人物は中々いない。しかし、居ないようで居るのも立派な人物で、どこかに必ず居るものだ。
【ひとこと】『論語・顔淵篇』に、孔子が弟子の子張に対して、「達人」と「聞人」との違いを説明した章句があります。原文は長いので要点だけ解説しますと、「達人」とは、優れた観察力・洞察力を持って事に当たり、真心があり正義を大切にし、人に対しては誠実と謙譲の精神を持って接することが出来る人のことです。一方で「聞人」とは、上辺は人格者のように要領よく振舞い、見栄えはいいけれども行動は伴わない人物のこと、所謂見かけ大事の人のことです。
私たちの周りでも、「聞人」に該当する人物は沢山います。有名な芸能人で売れっ子になっているけれども、裏で麻薬を常習したり、不倫をしたり。大臣に抜擢されるような政治家が、裏で怪しいお金に手を染めたり配ったり・・・。このような人は、一時は注目を浴びることがあっても、長い人生の中では、いずれ忘れ去られていくでしょう。
反対に、名前も知られず、地位も無いけれども立派な生き方をしている人もいます。ふとしたきっかけから有名人になってしまいましたが、ボランティア活動をずっと続けておられる尾畑さん。災害現場で我が身の危険も顧みず人身救助に務めるレスキュー隊の皆さんなど。これ以外にも私たちの身の回りを注意して観れば、人の嫌がる事をいつも率先してやってくれるご近所さんなど、世の為人の為に汗を流すことを厭わない人が居るはずです。私はこういう人のことを「達人」というのだと思います。
歴史上の偉人や有名人の人生論から学ぶことも大切ですが、身の回りで立派な生き方をしている人を見つけ、その人から学ぶことも生きた学問として大切なことです。「人に学び、人と成らん」。心掛けたいものです。
2020年01月26日
言志耋録180条 話の聴き方
人の一話一言は、徒(いたずら)に聞くこと勿れ。必ず交歹(こうたい)有り。弁ず可し。
【筆者意訳】人の、ちょっとした話、ちょっとした言葉も、いい加減に聞いてはならない。その中には必ず善いことと悪いことがあるから、よく弁別すべきである。
【ひとこと】「交歹(こうたい)」とは善と悪の意味です。人の言葉の中にある真意を見抜けということでしょうか。
《言志耋録174条/人を観る方法》のコラムで、人の心中を察するには、発する言葉を聴いて、瞳の動きを見るのが良いという話を紹介しましたが、人の話は、顔をどこかに向けていたのでは、耳を素通りして頭に入ってこないもの。話をしっかり聴こうとしたら、ちゃんと相手の眼を見て話を聞くことが大事です。結局人間は、眼の向きどころが注意の向きどころなのだと思います。
また、人の話には、長い短いに関わらず深い意味を持っていることがあるものです。またそれは話し手が意図しているか否かに関わらず、聴く側の心に共鳴する時もあります。要は聞く側のアンテナの高さが相手の話を意味のあるものにも、意味のないものにもするということです。
話は、興味を持って聴く、問題意識を持って聴くということが大切なのですね。心掛けたいものです。
【筆者意訳】人の、ちょっとした話、ちょっとした言葉も、いい加減に聞いてはならない。その中には必ず善いことと悪いことがあるから、よく弁別すべきである。
【ひとこと】「交歹(こうたい)」とは善と悪の意味です。人の言葉の中にある真意を見抜けということでしょうか。
《言志耋録174条/人を観る方法》のコラムで、人の心中を察するには、発する言葉を聴いて、瞳の動きを見るのが良いという話を紹介しましたが、人の話は、顔をどこかに向けていたのでは、耳を素通りして頭に入ってこないもの。話をしっかり聴こうとしたら、ちゃんと相手の眼を見て話を聞くことが大事です。結局人間は、眼の向きどころが注意の向きどころなのだと思います。
また、人の話には、長い短いに関わらず深い意味を持っていることがあるものです。またそれは話し手が意図しているか否かに関わらず、聴く側の心に共鳴する時もあります。要は聞く側のアンテナの高さが相手の話を意味のあるものにも、意味のないものにもするということです。
話は、興味を持って聴く、問題意識を持って聴くということが大切なのですね。心掛けたいものです。
2020年01月25日
言志耋録179条 愛憎を克服する
物に於いて愛憎有るは、尚お可なり。人に於いて愛憎有るは、則ち不可なり。
【筆者意訳】物を愛おしんだり嫌ったりするのはまだ良いが、人を愛したり憎んだりするのは、(禍のもとになるので)良くない。
【ひとこと】本条文をどう意訳するのか悩みました。最初は、「物に対して好き嫌いがあるのはまだ良いが、人に対して好き嫌いを言うのは良くない。」と訳しましたが、それでは「愛憎」の意味が軽くなってしまうので、結局意訳のように落ち着きました。
人の好き嫌いというのは、程度の差はあっても誰にでもあるように思います。それも良いことではないのですが、全てを不可としてしまうと、本条文の趣旨から外れてしまうように思います。
一斎の言いたかったことは、好き嫌いの度を越えた、ベタ惚れ/憎らしいという感情ではないかと思います。
そこまで行くと、正常な判断が出来なくなりますので、禍を招くことになりかねないという戒めでしょうね。
昔、ある本で、「人間は、記憶に生きる動物である」という言葉に出会いました。例えば、今目の前にいる人のことが”嫌い”だとします。その”嫌い”という感情は、過去にその人に嫌なことをされたとかいう記憶から起こっているということです。今目の前にいる人が、今自分に対して嫌なことをしているわけではないのに、”嫌い”だと感じてしまうのが人間の習性だということですね。
私は、この言葉に出会ってから、考え方を変えるようにしています。”例え過去に嫌な思いをして嫌っていた相手でも、今目の前にいる相手は、その時と同じではないかもしれない。だから今は真っ新な心で接しよう。”と考えるようにしています。このようにすると、心のしこりも取れて、嫌いだった相手と良い関係が結べるようになることもあるものです。
【筆者意訳】物を愛おしんだり嫌ったりするのはまだ良いが、人を愛したり憎んだりするのは、(禍のもとになるので)良くない。
【ひとこと】本条文をどう意訳するのか悩みました。最初は、「物に対して好き嫌いがあるのはまだ良いが、人に対して好き嫌いを言うのは良くない。」と訳しましたが、それでは「愛憎」の意味が軽くなってしまうので、結局意訳のように落ち着きました。
人の好き嫌いというのは、程度の差はあっても誰にでもあるように思います。それも良いことではないのですが、全てを不可としてしまうと、本条文の趣旨から外れてしまうように思います。
一斎の言いたかったことは、好き嫌いの度を越えた、ベタ惚れ/憎らしいという感情ではないかと思います。
そこまで行くと、正常な判断が出来なくなりますので、禍を招くことになりかねないという戒めでしょうね。
昔、ある本で、「人間は、記憶に生きる動物である」という言葉に出会いました。例えば、今目の前にいる人のことが”嫌い”だとします。その”嫌い”という感情は、過去にその人に嫌なことをされたとかいう記憶から起こっているということです。今目の前にいる人が、今自分に対して嫌なことをしているわけではないのに、”嫌い”だと感じてしまうのが人間の習性だということですね。
私は、この言葉に出会ってから、考え方を変えるようにしています。”例え過去に嫌な思いをして嫌っていた相手でも、今目の前にいる相手は、その時と同じではないかもしれない。だから今は真っ新な心で接しよう。”と考えるようにしています。このようにすると、心のしこりも取れて、嫌いだった相手と良い関係が結べるようになることもあるものです。
2020年01月24日
言志耋録178条 人の振り見て・・・
執拗は凝定に似たり。軽遽(けいきょ)は敏捷に似たり。多言は博識に似たり。浮薄は才慧に似たり。人の似たる者を視て、以て己を反省すれば可なり。
【筆者意訳】しつこいのは信念が固いのに似ている。軽はずみなのは敏捷なのに似ている。口数が多いのは博識に似ている。軽薄なのは頭の回転が速いのに似ている。このように、人の似て非なる言動を視て、自分自身を反省するのが良い。
【ひとこと】「似て非なるもの」は、物でも人でも世の中に沢山あります。厄介なのは、ちょっと見ただけでは、それが本物のように見えるところです。一定の知識・見識を持って良く観察すれば偽物であることが解るはずですが、それが中々できないのは、人の欲目によるものでしょうか。
『論語・里仁篇』に、「子曰わく、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省(かえり)みるなり。」という章句があります。”優れた人を見たら、自分もそのようになりたいと思い、つまらない人を見たら、自分もそのようなことがないかと内省せよ。”という意味になりますが、まさに「人の振り見て我が振り直せ」の諺通り、自分より優れた人からだけでなく、劣った人からも、その立ち居振る舞いを自分に置き換えて自分を見つめ直すことで、学びに変えることが出来るのです。
他人を正しく評価するためには、先ず自分自身を客観的に見つめ直すことが大切だということだと思います。
【筆者意訳】しつこいのは信念が固いのに似ている。軽はずみなのは敏捷なのに似ている。口数が多いのは博識に似ている。軽薄なのは頭の回転が速いのに似ている。このように、人の似て非なる言動を視て、自分自身を反省するのが良い。
【ひとこと】「似て非なるもの」は、物でも人でも世の中に沢山あります。厄介なのは、ちょっと見ただけでは、それが本物のように見えるところです。一定の知識・見識を持って良く観察すれば偽物であることが解るはずですが、それが中々できないのは、人の欲目によるものでしょうか。
『論語・里仁篇』に、「子曰わく、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省(かえり)みるなり。」という章句があります。”優れた人を見たら、自分もそのようになりたいと思い、つまらない人を見たら、自分もそのようなことがないかと内省せよ。”という意味になりますが、まさに「人の振り見て我が振り直せ」の諺通り、自分より優れた人からだけでなく、劣った人からも、その立ち居振る舞いを自分に置き換えて自分を見つめ直すことで、学びに変えることが出来るのです。
他人を正しく評価するためには、先ず自分自身を客観的に見つめ直すことが大切だということだと思います。
2020年01月23日
言志耋録177条 誠を実践する
自ら多識に矜(ほこ)るは、浅露の人なり。自ら謙遜に過ぐるは、足恭(すうきょう)の人なり。ただその自ら欺かざる者は、君子人なり。之れを誠にする者なり。
【筆者意訳】自分から博識をひけらかすのは、浅はかな人間だ。自分から卑下しすぎるのは、媚びへつらう人間だ。ただ自ら欺かずにありのままでいられる人間が君子(=立派な人物)である。こういう人物こそが誠を実践するのだ。
【ひとこと】「浅露」とは浅はかな自己を露呈すること、「足恭(すうきょう)」とは媚びへつらうことです。
「自ら多識を矜る」のは、自分をより良く見せようとする虚栄心から為される振る舞い、「自ら謙遜に過ぐる」のは、これとは反対に、相手にへつらい自分を矮小化する行為です。何れも自分の利益を考えて本当の姿を隠す、誠(=真心)の無い行為といえます。
その裏には、自分という存在に自身が持てない、弱い心があることが共通しているものです。
自分の存在に自身を持っている人は、地位や貧富に関係なく、自然体の自分で人に接することが出来ます(我儘な自分を通すとか、人のことは斟酌しないで振舞うということではありません)。
このような人物は、人を欺くことはもちろん、自分を欺くこともしません(する必要がないのです)。そうであってこそ、誠の道を実践できるということですね。
『中庸』に、「誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり」という一節があります。”嘘偽りのない真心(=誠)こそ天の道(=ルール)である、その天の道に沿って自ら誠実を実践していくことが人の道である”という意味ですが、一斎の本条文の「之を誠にする」とは、このことを言っているものです。
【筆者意訳】自分から博識をひけらかすのは、浅はかな人間だ。自分から卑下しすぎるのは、媚びへつらう人間だ。ただ自ら欺かずにありのままでいられる人間が君子(=立派な人物)である。こういう人物こそが誠を実践するのだ。
【ひとこと】「浅露」とは浅はかな自己を露呈すること、「足恭(すうきょう)」とは媚びへつらうことです。
「自ら多識を矜る」のは、自分をより良く見せようとする虚栄心から為される振る舞い、「自ら謙遜に過ぐる」のは、これとは反対に、相手にへつらい自分を矮小化する行為です。何れも自分の利益を考えて本当の姿を隠す、誠(=真心)の無い行為といえます。
その裏には、自分という存在に自身が持てない、弱い心があることが共通しているものです。
自分の存在に自身を持っている人は、地位や貧富に関係なく、自然体の自分で人に接することが出来ます(我儘な自分を通すとか、人のことは斟酌しないで振舞うということではありません)。
このような人物は、人を欺くことはもちろん、自分を欺くこともしません(する必要がないのです)。そうであってこそ、誠の道を実践できるということですね。
『中庸』に、「誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり」という一節があります。”嘘偽りのない真心(=誠)こそ天の道(=ルール)である、その天の道に沿って自ら誠実を実践していくことが人の道である”という意味ですが、一斎の本条文の「之を誠にする」とは、このことを言っているものです。
2020年01月22日
言志耋録176条 人を知り、自分を知る
人己は一なり。自ら知りて人を知らざるは、未だ自ら知らざる者なり。自ら愛して人を愛せざるは、未だ自ら愛せざる者なり。
【筆者意訳】他人と自分とは一つである。自分のことを知って人のことを知らないというのは、まだ自分自身を知らないということなのだ。自分を愛しても人を愛せないというのは、まだ本当に自分を愛してはいないということなのだ。
【ひとこと】自分の背中は自分では見えないように、自分のことは知っているつもりでも本当は分かっていないものです。本当の自分を知りたいと思ったら、人のことを知ることです。人の優れたところ、そうでない所を知って自分と照らし合わせれば、自分の長所短所が見えてきます。また、人が自分とどう接してくれるかを観れば、その人に自分がどう映っているのかを察することが出来ます。
「立ち向かう 人の心は鏡なり 己が姿を 映してやみん」という黒住宗忠の詩は、まさにこのことを言ったものだと思います。
また『論語』に、”性相近し、習い相遠し(人間は生まれつきは大きな違いはないが、身に付けた習慣や教育で大きく異なるものだ)。”という孔子の言葉があるように、人間は成長するに従い、考え方も、受け止める感情も、表現の仕方も異なってくるものです。その違いを認め、お互いに理解しあい、自分も他人も活き活きとした人生を送れるように支えあうことが、自分を愛し、人を愛することにつながるのだと思うのです。
【筆者意訳】他人と自分とは一つである。自分のことを知って人のことを知らないというのは、まだ自分自身を知らないということなのだ。自分を愛しても人を愛せないというのは、まだ本当に自分を愛してはいないということなのだ。
【ひとこと】自分の背中は自分では見えないように、自分のことは知っているつもりでも本当は分かっていないものです。本当の自分を知りたいと思ったら、人のことを知ることです。人の優れたところ、そうでない所を知って自分と照らし合わせれば、自分の長所短所が見えてきます。また、人が自分とどう接してくれるかを観れば、その人に自分がどう映っているのかを察することが出来ます。
「立ち向かう 人の心は鏡なり 己が姿を 映してやみん」という黒住宗忠の詩は、まさにこのことを言ったものだと思います。
また『論語』に、”性相近し、習い相遠し(人間は生まれつきは大きな違いはないが、身に付けた習慣や教育で大きく異なるものだ)。”という孔子の言葉があるように、人間は成長するに従い、考え方も、受け止める感情も、表現の仕方も異なってくるものです。その違いを認め、お互いに理解しあい、自分も他人も活き活きとした人生を送れるように支えあうことが、自分を愛し、人を愛することにつながるのだと思うのです。
2020年01月21日
言志耋録174条 人を観る方法
人を観るには、徒に外その容止に拘わること勿れ。須らく之れをして言語せしめ、就きてその心術を相すべくば可なり。先ずその眸子(ぼうし)を観、またその言語を聴かば、大抵廋(かく)す能わじ。
【筆者意訳】人物を観察する場合には、徒にその外見上の立ち居振る舞いに捉われてはいけない。必ずその人に色々と話をさせて、その時の心の動きを観るのが良い。その人の瞳の動きを観察し、言葉を聴けば、だれでも大抵は心中を隠すことはできないものだ。
【ひとこと】「容止」とは容貌動止の略、外見や立ち居振る舞いのことです。「心術」とは気立・心持ちのこと、ここでは心の動きと訳しました。「眸子(ぼうし)」とは瞳のことです。
諺に、「目は口ほどに物を言う」とあるように、視線や瞳の動きを見れば、その人が本心で言っているか、やましい心を持っていないか、気持ちが明るいのか暗いのかなどがわかるものです。また言葉使いにはその人の感情…怒りや侮蔑などの悪い感情、喜びや哀しみの気持ちなどが現れるものです。ですから瞳の動きと話し方を照合して観察すれば、相手の心中は推察できるということですね。
『孟子』に、「人を察るには眸子より良きはなし。眸子はその悪を奄(おお)う能ず。胸中正しければ則ち眸子瞭(あきらか)なり。胸中正しからざれば則ち眸子眊(くら)し。その言を聴きてその眸子を観れば、人焉んぞ廋(かく)さんや。」という言葉があります。
”人物を見分けるには瞳を見るのが良い。瞳は悪い心を隠すことが出来ないからだ。心が正しければ瞳は明るく澄んでいるが、心が正しくなければ瞳は暗く曇っているものだ。だから相手の言葉をよく聴きながら、その瞳をよく観察すれば、大抵は心中を察することはできるのだ。”という意味になります。一斎の本条文は、『孟子』のこの言葉が頭にあって発せられたものと推察します。
【筆者意訳】人物を観察する場合には、徒にその外見上の立ち居振る舞いに捉われてはいけない。必ずその人に色々と話をさせて、その時の心の動きを観るのが良い。その人の瞳の動きを観察し、言葉を聴けば、だれでも大抵は心中を隠すことはできないものだ。
【ひとこと】「容止」とは容貌動止の略、外見や立ち居振る舞いのことです。「心術」とは気立・心持ちのこと、ここでは心の動きと訳しました。「眸子(ぼうし)」とは瞳のことです。
諺に、「目は口ほどに物を言う」とあるように、視線や瞳の動きを見れば、その人が本心で言っているか、やましい心を持っていないか、気持ちが明るいのか暗いのかなどがわかるものです。また言葉使いにはその人の感情…怒りや侮蔑などの悪い感情、喜びや哀しみの気持ちなどが現れるものです。ですから瞳の動きと話し方を照合して観察すれば、相手の心中は推察できるということですね。
『孟子』に、「人を察るには眸子より良きはなし。眸子はその悪を奄(おお)う能ず。胸中正しければ則ち眸子瞭(あきらか)なり。胸中正しからざれば則ち眸子眊(くら)し。その言を聴きてその眸子を観れば、人焉んぞ廋(かく)さんや。」という言葉があります。
”人物を見分けるには瞳を見るのが良い。瞳は悪い心を隠すことが出来ないからだ。心が正しければ瞳は明るく澄んでいるが、心が正しくなければ瞳は暗く曇っているものだ。だから相手の言葉をよく聴きながら、その瞳をよく観察すれば、大抵は心中を察することはできるのだ。”という意味になります。一斎の本条文は、『孟子』のこの言葉が頭にあって発せられたものと推察します。