2020年01月20日
言志耋録172条 旧恩の人、新知の人
旧恩の人は、疎遠すべからず。新知の人は、過狎(かこう)すべからず。
【筆者意訳】昔の事であっても、恩ある人を疎遠にしてはいけない。新しく知り合った人とは、馴れ馴れしくしすぎてはいけない。
【ひとこと】「旧恩」と「新知」を対比させて、我々が陥りやすい過ちを戒めている条文です。
私達の生活は、今付き合っている人を中心に回っていきます。今の生活圏内から外れた人は、「旧知の人」であっても疎遠になっていくものです。その中には、昔、恩を受けた人もいるでしょう。
恩ある人でも、時間がたち、住む地が異なってくると、心の中には感謝の思いを保ちながらも、ついつい足が遠のき、ご無沙汰してしまうという経験は誰にもあると思います。しかしそれではいけないと一斎は戒めています。
幸いに我が国には、年賀状という良い習慣がありますから、せめて年賀の挨拶だけは欠かさずにと、心を込めて賀状をしたためる…このようにしている人は私の外にも多いのではないでしょうか。
しかし、たかが年賀状一本でも、受け取る側になると嬉しいものです。そこに心の繋がりが感じられるからでしょうね。ささやかですが、「疎遠すべからず」のひとつの方法だと思います。
一方で「新知の人」は、何かの縁で知り合えた人ですから、より深く知り合いたいという気持ちになります。特に事業などを営んでいる場合には、自分に機会を与えてくれる可能性もある人ですから、関係を濃くしていきたいと思うでしょう。
それはそれでいいのですが、度を越した馴れ馴れしさは避けるべきでしょう。適度の礼節を保って付き合うというのが大切だということですね。
【筆者意訳】昔の事であっても、恩ある人を疎遠にしてはいけない。新しく知り合った人とは、馴れ馴れしくしすぎてはいけない。
【ひとこと】「旧恩」と「新知」を対比させて、我々が陥りやすい過ちを戒めている条文です。
私達の生活は、今付き合っている人を中心に回っていきます。今の生活圏内から外れた人は、「旧知の人」であっても疎遠になっていくものです。その中には、昔、恩を受けた人もいるでしょう。
恩ある人でも、時間がたち、住む地が異なってくると、心の中には感謝の思いを保ちながらも、ついつい足が遠のき、ご無沙汰してしまうという経験は誰にもあると思います。しかしそれではいけないと一斎は戒めています。
幸いに我が国には、年賀状という良い習慣がありますから、せめて年賀の挨拶だけは欠かさずにと、心を込めて賀状をしたためる…このようにしている人は私の外にも多いのではないでしょうか。
しかし、たかが年賀状一本でも、受け取る側になると嬉しいものです。そこに心の繋がりが感じられるからでしょうね。ささやかですが、「疎遠すべからず」のひとつの方法だと思います。
一方で「新知の人」は、何かの縁で知り合えた人ですから、より深く知り合いたいという気持ちになります。特に事業などを営んでいる場合には、自分に機会を与えてくれる可能性もある人ですから、関係を濃くしていきたいと思うでしょう。
それはそれでいいのですが、度を越した馴れ馴れしさは避けるべきでしょう。適度の礼節を保って付き合うというのが大切だということですね。
2020年01月19日
言志耋録171条 厚徳に生きる
人は当に往事を忘れざるべし。是れを厚徳と為す。
【筆者意訳】人は過去に受けた恩恵を忘れてはいけない。これが厚い徳行というものである。
【ひとこと】昨日紹介した『言志耋録169条』の後半で、「我れ恵を人に受けては忘るべからず」と一斎は語っていますが、それと同じ意味ですね。
「往事」とは、一般的には過去の事柄を意味します。ですから本条文は、”過去の出来事を忘れてはならない”と解釈することもできます。しかしそれではあまりにも漠然としすぎると思いましたので、参考としている著書(言志四録/楠本文雄氏著、川上正光氏著)に倣って、ここでは意訳のように解釈しました。
しかし、人から受けた恩恵でなくても、忘れてはならない過去の出来事というのはあります。その最たるものは、大きな災害とか、悲惨な事故や戦争など、人類社会の教訓とすべき出来事でしょう。また個人としても、自分の人生を変える出来事は忘れることができないものでしょう。
このように重大な出来事は、社会にとっても自分の人生にとっても、必ず意味をなすものですから、決して忘れることなく、そこから得た教訓を社会や人生に活かしていかなければいけません。それも「厚徳」と言えるのではないかと思います。
もちろん、本条文にあるように、人から受けた恩恵を忘れずに、何らかの形でその恩に報いていくこと…それはご恩返しかもしれないし、ご恩送りかもしれないけれども…そのように生きていくことが「厚徳」なのは言うまでもないでしょう。
【筆者意訳】人は過去に受けた恩恵を忘れてはいけない。これが厚い徳行というものである。
【ひとこと】昨日紹介した『言志耋録169条』の後半で、「我れ恵を人に受けては忘るべからず」と一斎は語っていますが、それと同じ意味ですね。
「往事」とは、一般的には過去の事柄を意味します。ですから本条文は、”過去の出来事を忘れてはならない”と解釈することもできます。しかしそれではあまりにも漠然としすぎると思いましたので、参考としている著書(言志四録/楠本文雄氏著、川上正光氏著)に倣って、ここでは意訳のように解釈しました。
しかし、人から受けた恩恵でなくても、忘れてはならない過去の出来事というのはあります。その最たるものは、大きな災害とか、悲惨な事故や戦争など、人類社会の教訓とすべき出来事でしょう。また個人としても、自分の人生を変える出来事は忘れることができないものでしょう。
このように重大な出来事は、社会にとっても自分の人生にとっても、必ず意味をなすものですから、決して忘れることなく、そこから得た教訓を社会や人生に活かしていかなければいけません。それも「厚徳」と言えるのではないかと思います。
もちろん、本条文にあるように、人から受けた恩恵を忘れずに、何らかの形でその恩に報いていくこと…それはご恩返しかもしれないし、ご恩送りかもしれないけれども…そのように生きていくことが「厚徳」なのは言うまでもないでしょう。
2020年01月18日
言志耋録169条 恩の受け方、施し方
我れ恩を人に施しては、忘る可し。我れ恵を人に受けては、忘る可からず。
【筆者意訳】人に施した恩恵は、忘れてしまうのが良い。人から受けた恩恵は、決して忘れてはならない。
【ひとこと】『菜根譚・前集52』に、「恩を施す者は、内に己を見ず、外に人を見ざれば、即ち斗粟も万鐘の恵みに当たるべし。」とあります。”人に恩恵を施す場合は、施すという意識を持たず、相手の感謝を期待する気持ちが無ければ、わずかな施しでも大きな恩恵に値する。”という意味になります。施した恩の見返りを求めるなという教えですね。
残念ながら凡人は、これとは反対に、人から受けた恩恵は忘れてしまうくせに、自分が施した恩恵はいつまでも覚えているものです。そして気に入らないことがあると、”あいつは恩知らずだ”などと非難するものです。しかしそこには、無意識の内にも傲慢な心があるのではないでしょうか。
人は誰でも生まれて以来、自分が施した何倍もの恩恵を受けて生かされているはずです。そのことに気が付かない自分こそ、恩知らずだと知るべきでしょう。
人は支えあって生きていくもの。ある時は人を支え(=恩恵を施し)、ある時は人に支えられ(=恩恵を受けて)、お互いに倒れないように人生を歩んでいくものです。恩恵を施すも施されるもお互い様、返しきれないご恩は次の人に送っていく…こういった心で生きたいものです。
一斎の言葉は、そのための大切な心構えであり、生きていく上での智慧だと思うのです。
【筆者意訳】人に施した恩恵は、忘れてしまうのが良い。人から受けた恩恵は、決して忘れてはならない。
【ひとこと】『菜根譚・前集52』に、「恩を施す者は、内に己を見ず、外に人を見ざれば、即ち斗粟も万鐘の恵みに当たるべし。」とあります。”人に恩恵を施す場合は、施すという意識を持たず、相手の感謝を期待する気持ちが無ければ、わずかな施しでも大きな恩恵に値する。”という意味になります。施した恩の見返りを求めるなという教えですね。
残念ながら凡人は、これとは反対に、人から受けた恩恵は忘れてしまうくせに、自分が施した恩恵はいつまでも覚えているものです。そして気に入らないことがあると、”あいつは恩知らずだ”などと非難するものです。しかしそこには、無意識の内にも傲慢な心があるのではないでしょうか。
人は誰でも生まれて以来、自分が施した何倍もの恩恵を受けて生かされているはずです。そのことに気が付かない自分こそ、恩知らずだと知るべきでしょう。
人は支えあって生きていくもの。ある時は人を支え(=恩恵を施し)、ある時は人に支えられ(=恩恵を受けて)、お互いに倒れないように人生を歩んでいくものです。恩恵を施すも施されるもお互い様、返しきれないご恩は次の人に送っていく…こういった心で生きたいものです。
一斎の言葉は、そのための大切な心構えであり、生きていく上での智慧だと思うのです。
2020年01月17日
言志耋録168条 本末を見極める
事には本末あり。固より已に分明なり。ただ本に似たる末あり。末に似たる本有り。察を致さざる可からず。
【筆者意訳】全て物事には本と末がある。それははっきりしている。しかし本に似た末があったり、末に似た本があったりもする。よく見極めることが大切だ。
【ひとこと】「本末転倒」という言葉があります。我々の周りで起きる事象に関して、私たちはどれだけ本末を見極めることが出来ているでしょうか?TVでは毎日夥しい情報が報道されていますが、報道される内容は、表面に現れた現象でしかありません。その裏には、そこに至った経緯や原因があるはずですが、それは様々な制約があって報道されることは滅多にありません。その結果、私たちの記憶には、物事の表面ずらだけしか残らない…そのような状況に私たちは慣らされてしまっています。
TV報道に限らず、私たちは身近に起こる事についても、本当に大事なことと、どうでもいいことをごっちゃにして考えてしまうことがあります。また仕事に於いても、手段としてやっていることが、いつの間にか目的になってしまうことがあります。それらは、物事を表面的・習慣的に捉えて、深く考えることをしないところに要因があるように思います。
人間は習慣の生き物ですから、経験したこと・類似したことは経験則の中で効率的に対処しようとします。しかしそこに大きな落とし穴があること注意すべきでしょう。今まで特に意識もしないで行ってきた物事に対して、時には、”これは何のためにしていることなのか?”、”このやり方は、目的に対して最良の方法なのだろうか?”という問いを発してみることが大切なのではないかと思います。
【筆者意訳】全て物事には本と末がある。それははっきりしている。しかし本に似た末があったり、末に似た本があったりもする。よく見極めることが大切だ。
【ひとこと】「本末転倒」という言葉があります。我々の周りで起きる事象に関して、私たちはどれだけ本末を見極めることが出来ているでしょうか?TVでは毎日夥しい情報が報道されていますが、報道される内容は、表面に現れた現象でしかありません。その裏には、そこに至った経緯や原因があるはずですが、それは様々な制約があって報道されることは滅多にありません。その結果、私たちの記憶には、物事の表面ずらだけしか残らない…そのような状況に私たちは慣らされてしまっています。
TV報道に限らず、私たちは身近に起こる事についても、本当に大事なことと、どうでもいいことをごっちゃにして考えてしまうことがあります。また仕事に於いても、手段としてやっていることが、いつの間にか目的になってしまうことがあります。それらは、物事を表面的・習慣的に捉えて、深く考えることをしないところに要因があるように思います。
人間は習慣の生き物ですから、経験したこと・類似したことは経験則の中で効率的に対処しようとします。しかしそこに大きな落とし穴があること注意すべきでしょう。今まで特に意識もしないで行ってきた物事に対して、時には、”これは何のためにしていることなのか?”、”このやり方は、目的に対して最良の方法なのだろうか?”という問いを発してみることが大切なのではないかと思います。
2020年01月16日
言志耋録167条 仕え易い上司、仕えにくい上司
親しみ易き者は小人にして、狎れ難き者は君子なり。仕え難き者は小人にして、事え易き者は君子なり。
【筆者意訳】普通の人に対しては親しみ易いが、立派な人物に対しては馴れ馴れしくし難いものだ。しかし、上司として仕える時には、普通の人物には仕えにくいものであり、立派な人物には仕え易いものである。
【ひとこと】『論語・子路篇』に、「子曰く、君子は事え易くして説(よろこ)ばせしめ難し。之を説ばしむるに道を以てせざれば説ばざるなり。その人を使うに及びては之を器にす。小人は事え難くして説ばしめ易し。之を説ばしむるに、道を以てせずとも説ぶなり。その人を使うに及びては、備わらんことを求む。」という章句があります。
意味は、”立派な人物に部下として仕えることは易しいが、喜ばせることは難しい。道理に叶ったことでなければ喜ばないからだ。しかし部下を長所や能力に応じて使いこなしてくれるから仕え易い。普通の人物に部下として仕えることは難しいが、喜ばせることは簡単だ。道理に叶ったことでなくても喜ぶからだ。しかし部下の長所や能力を考えずにオールマイティを求めるから仕え難いのだ。”となります。
一斎は『論語』のこの章句が頭にあって、本条文を語ったものと推察されます。
出来た人物というのは、人との付き合い方に於いても、親しき中にも節度を持って付き合い、馴れ合いの付き合い方はしないものです。また人の上に立った場合には、その人の長所短所をよく観て、その人が活きるような使い方をするということですね。
【筆者意訳】普通の人に対しては親しみ易いが、立派な人物に対しては馴れ馴れしくし難いものだ。しかし、上司として仕える時には、普通の人物には仕えにくいものであり、立派な人物には仕え易いものである。
【ひとこと】『論語・子路篇』に、「子曰く、君子は事え易くして説(よろこ)ばせしめ難し。之を説ばしむるに道を以てせざれば説ばざるなり。その人を使うに及びては之を器にす。小人は事え難くして説ばしめ易し。之を説ばしむるに、道を以てせずとも説ぶなり。その人を使うに及びては、備わらんことを求む。」という章句があります。
意味は、”立派な人物に部下として仕えることは易しいが、喜ばせることは難しい。道理に叶ったことでなければ喜ばないからだ。しかし部下を長所や能力に応じて使いこなしてくれるから仕え易い。普通の人物に部下として仕えることは難しいが、喜ばせることは簡単だ。道理に叶ったことでなくても喜ぶからだ。しかし部下の長所や能力を考えずにオールマイティを求めるから仕え難いのだ。”となります。
一斎は『論語』のこの章句が頭にあって、本条文を語ったものと推察されます。
出来た人物というのは、人との付き合い方に於いても、親しき中にも節度を持って付き合い、馴れ合いの付き合い方はしないものです。また人の上に立った場合には、その人の長所短所をよく観て、その人が活きるような使い方をするということですね。
2020年01月15日
言志耋録162条 教訓の伝え方(その4)
小児を訓うるには、苦口を要せず。ただ須らく欺く勿れの二字を以てすべし。是れを緊要と為す。
【筆者意訳】子供を訓えるのには、あれこれと苦言を言う必要はない。ただ「嘘をつくな」だけでよい。これが最も大切なことである。
【ひとこと】「欺く勿れ」には二つの意味があります。一つは、人を騙さないこと、裏切らないことです。もう一つは自分の心に背かないこと、自分に正直に生きることです。
一斎は、人間として生きていく上で最も大切なことは、人を欺かないことと自分に正直に生きることだと説きました。その教えが本条文に凝縮されています。その意味では、本条文の教えは子供に限ったものではないのです。
ただ、子供に対しては、一度に多くのことを言っても理解の範囲を超えるので、人間として最も大切な、「欺く勿れ」の一言を言えばいいということですね。
【筆者意訳】子供を訓えるのには、あれこれと苦言を言う必要はない。ただ「嘘をつくな」だけでよい。これが最も大切なことである。
【ひとこと】「欺く勿れ」には二つの意味があります。一つは、人を騙さないこと、裏切らないことです。もう一つは自分の心に背かないこと、自分に正直に生きることです。
一斎は、人間として生きていく上で最も大切なことは、人を欺かないことと自分に正直に生きることだと説きました。その教えが本条文に凝縮されています。その意味では、本条文の教えは子供に限ったものではないのです。
ただ、子供に対しては、一度に多くのことを言っても理解の範囲を超えるので、人間として最も大切な、「欺く勿れ」の一言を言えばいいということですね。
2020年01月14日
言志耋録161条 教訓の伝え方(その3)
女子を訓うるは、宜しく恕にして厳なるべし。小人を訓うるは、宜しく厳にして恕なるべし。
【筆者意訳】女性を訓えるには、まず思いやりの言葉を先にかけて、その後に厳しい言葉で訓えるのがよい。小人を訓えるには、まず厳しい言葉でピリッとさせ、その後に優しい言葉で諭すのが良い。
【ひとこと】『論語・陽貨篇』に、「子曰く、唯女子と小人とは養い難しと為す。之を近づくれば則ち不遜なり。之を遠ざけくれば則ち怨む(教養の無い女性とレベルの低い男は扱いにくい。近づければ馴れ馴れしくなり、遠ざければ怨みを持つようになる)。」という文章がありますが、孔子でさえも女性と小人の扱いには難渋したのでしょう。
私も現役時代に、女性を部下に持ったことがありましたが、他の男性と同じような対応をしたのでは上手くいかないのを経験的に知っているつもりです。男性も女性も、自分を認めてくれる人の言うことを聞くのは同じですが、女性は特にその傾向が強いように思います。ですから最初に、”貴方のことを大切に思っているよ”という気持ちを伝えて、心を開いてもらうことがキーなのですね。そうすれば多少厳しいことでも聞いてくれるものです。
一方、節度の無いだらしない男に対しては、最初から厳しい言葉を発して緊張感を持たせることが大事でしょう。そうすれば”この男には舐めてかかったら危ないぞ”と思いますから、続く話をよく聞くようになります。
しかし、最近の男性は、「草食系男子」と揶揄されるほどヤワになりましたから、厳しい言葉を発すると、それだけで委縮して会社に出てこなくなってしまうかもしれませんね。男性にも「宜しく恕にして厳なるべし」となるのでしょうか。いやはや疲れる世相です。
【筆者意訳】女性を訓えるには、まず思いやりの言葉を先にかけて、その後に厳しい言葉で訓えるのがよい。小人を訓えるには、まず厳しい言葉でピリッとさせ、その後に優しい言葉で諭すのが良い。
【ひとこと】『論語・陽貨篇』に、「子曰く、唯女子と小人とは養い難しと為す。之を近づくれば則ち不遜なり。之を遠ざけくれば則ち怨む(教養の無い女性とレベルの低い男は扱いにくい。近づければ馴れ馴れしくなり、遠ざければ怨みを持つようになる)。」という文章がありますが、孔子でさえも女性と小人の扱いには難渋したのでしょう。
私も現役時代に、女性を部下に持ったことがありましたが、他の男性と同じような対応をしたのでは上手くいかないのを経験的に知っているつもりです。男性も女性も、自分を認めてくれる人の言うことを聞くのは同じですが、女性は特にその傾向が強いように思います。ですから最初に、”貴方のことを大切に思っているよ”という気持ちを伝えて、心を開いてもらうことがキーなのですね。そうすれば多少厳しいことでも聞いてくれるものです。
一方、節度の無いだらしない男に対しては、最初から厳しい言葉を発して緊張感を持たせることが大事でしょう。そうすれば”この男には舐めてかかったら危ないぞ”と思いますから、続く話をよく聞くようになります。
しかし、最近の男性は、「草食系男子」と揶揄されるほどヤワになりましたから、厳しい言葉を発すると、それだけで委縮して会社に出てこなくなってしまうかもしれませんね。男性にも「宜しく恕にして厳なるべし」となるのでしょうか。いやはや疲れる世相です。
2020年01月13日
言志耋録160条 教訓の伝え方(その2)
人を訓戒する時、語は簡明なるを要し、切当なるを要す。疾言すること勿れ。詈辱(りじょく)すること勿れ。
【筆者意訳】人を訓え戒める時は、言葉は簡潔明瞭で、相手に対して適切でなければならない。早口で話したり、ののしり辱しめることがあってはならない。
【ひとこと】「切当」とは適切であること、核心を突くことです。「疾言」とは早口で話すこと、「詈辱(りじょく)」とはののしり辱しめることです。
人を訓戒(訓え戒める)のは、なかなか難しいことです。それはそこに「感情」が入り込み易いからです。
『言志録71条』で、忠告のし方・され方と題して、「諫めを聞く者は、固と須らく虚懐なるべし。諫めを進む者も亦須らく虚懐なるべし。」という条文を紹介しましたが、訓戒も同様で、訓戒する方もされる方も、最初に心の状態を真っ新にすること、邪心の無い状態に心を整えることが必要なのですね。
そうすれば、訓戒する側は、要点を整理して、必要なことを簡潔明瞭に、且つ相手の状況を観察しながら、適切な言い方で話すことが出来るでしょう。また聴く側も、相手の言葉を素直に聞くことが出来るでしょうから、有意義な話になると思います。
一番やってはならないのは、怒りの心を持って話すこと、相手を見下して話すことでしょう。こうなると、発した言葉は、受け手の感情に跳ね返されて、折角良いことを話したとしても全く耳に入れてもらえません。訓戒は説教に変質してしまい、意義を生まない行為となってしまいます。気を付けなければなりませんね。
【筆者意訳】人を訓え戒める時は、言葉は簡潔明瞭で、相手に対して適切でなければならない。早口で話したり、ののしり辱しめることがあってはならない。
【ひとこと】「切当」とは適切であること、核心を突くことです。「疾言」とは早口で話すこと、「詈辱(りじょく)」とはののしり辱しめることです。
人を訓戒(訓え戒める)のは、なかなか難しいことです。それはそこに「感情」が入り込み易いからです。
『言志録71条』で、忠告のし方・され方と題して、「諫めを聞く者は、固と須らく虚懐なるべし。諫めを進む者も亦須らく虚懐なるべし。」という条文を紹介しましたが、訓戒も同様で、訓戒する方もされる方も、最初に心の状態を真っ新にすること、邪心の無い状態に心を整えることが必要なのですね。
そうすれば、訓戒する側は、要点を整理して、必要なことを簡潔明瞭に、且つ相手の状況を観察しながら、適切な言い方で話すことが出来るでしょう。また聴く側も、相手の言葉を素直に聞くことが出来るでしょうから、有意義な話になると思います。
一番やってはならないのは、怒りの心を持って話すこと、相手を見下して話すことでしょう。こうなると、発した言葉は、受け手の感情に跳ね返されて、折角良いことを話したとしても全く耳に入れてもらえません。訓戒は説教に変質してしまい、意義を生まない行為となってしまいます。気を付けなければなりませんね。
2020年01月12日
言志耋録159条 教訓の伝え方(その1)
少壮の書生と語る時、しきりに警戒を加うれば則ち聴く者厭う。ただ平常の話中に就きて、たまたま警戒を寓すれば、則ち彼れに於て益有り。我もまた煩瀆(はんとく)に至らじ。
【筆者意訳】若い学生と話をするときに、説教じみた言い方をすると、聴くほうは嫌がる。そこで普通の会話の中に、たまたまのように少し教訓をにじませるようにすれば、聴くほうにも利益になるし、話す方にも煩わしさがない。
【ひとこと】「警戒」とは警告と訓戒のこと、ここではより平易に、前半を説教じみた言い方、後半を教訓をにじませると訳しました。「煩瀆(はんとく)」とは、手数がかかって煩わしいことです。
”近頃の若いもんは”というのは、いつの時代になっても年長者が若年者を評価する時に発する常套句だとか。とかく年長者は若年者と話をするときに、自分の経験から得た教訓を語りたがるものです。
私も会社に入って20代の頃、酒の席で上司から、説教じみた話を望んでもいないのにされて閉口しました。しかし自分が部下を持った時、同じことをしている自分に気付き、ハッとした覚えがあります。以後慎みましたが・・・。
今思えば、相手に良かれと思ってしていることでしたが、相手にとっては迷惑なことだったと思います。どんなごちそうも胃の大きさ以上には食べられないのと同じで、どんな立派な教訓も「度」が過ぎれば受け入れられなくなるものです。この時の「度」とは、相手の状況や容量、自分との関係など、様々な要素があるでしょう。そういうことを全て勘案して、相手が受け入れやすい状況の時に、必要としていることを、受け入れやすい方法で伝えるのが、年長者たる者のとるべき態度だということですね。留意しなければなりません。
【筆者意訳】若い学生と話をするときに、説教じみた言い方をすると、聴くほうは嫌がる。そこで普通の会話の中に、たまたまのように少し教訓をにじませるようにすれば、聴くほうにも利益になるし、話す方にも煩わしさがない。
【ひとこと】「警戒」とは警告と訓戒のこと、ここではより平易に、前半を説教じみた言い方、後半を教訓をにじませると訳しました。「煩瀆(はんとく)」とは、手数がかかって煩わしいことです。
”近頃の若いもんは”というのは、いつの時代になっても年長者が若年者を評価する時に発する常套句だとか。とかく年長者は若年者と話をするときに、自分の経験から得た教訓を語りたがるものです。
私も会社に入って20代の頃、酒の席で上司から、説教じみた話を望んでもいないのにされて閉口しました。しかし自分が部下を持った時、同じことをしている自分に気付き、ハッとした覚えがあります。以後慎みましたが・・・。
今思えば、相手に良かれと思ってしていることでしたが、相手にとっては迷惑なことだったと思います。どんなごちそうも胃の大きさ以上には食べられないのと同じで、どんな立派な教訓も「度」が過ぎれば受け入れられなくなるものです。この時の「度」とは、相手の状況や容量、自分との関係など、様々な要素があるでしょう。そういうことを全て勘案して、相手が受け入れやすい状況の時に、必要としていることを、受け入れやすい方法で伝えるのが、年長者たる者のとるべき態度だということですね。留意しなければなりません。
2020年01月11日
言志耋録158条 尊敬できるお年寄りに
「老成人を侮ること勿れ、孤有幼を弱しとすること勿れ」とは、真に是れ盤庚(ばんこう)の明戒なり。今の才人往々此の訓を侵す。警む可きなり。
【筆者意訳】「人生経験を積んだ年寄りを馬鹿にするな、孤児や幼児を弱いからと言ってみくびるな」というのは、(殷王朝十七代王の)盤庚が言った誰にでもわかる戒めである。しかし当世の才人はこの訓戒を侵している。注意を促したい。
【ひとこと】我が国は、世界でも突出した高齢化社会に進んでいます。出生率が低下し、総人口が減少していく中で、我々のような高齢者だけが増えていく社会になっています。
年金や医療費は年々増大し、国家財政を強力に圧迫しています。今年度予算ベースで、社会保障費の総額は120兆円を超過し、このうち34兆円を税金から補填しています。国の税収が62兆円ですから、この半分以上が社会保障費に充てられている計算です。団塊の世代はこれから後期高齢者になっていきますので、年金も医療費も益々増えていくことは目に見えています。とても国家財政が持つとは思えません。
現政権は、全世代型社会保障を政治テーマに掲げていますが、そもそも社会保障は金がかかるものです。どこかの保障を削らなければ他に回す原資は出てきません。その対象は高齢者であることは誰が見ても明らかです。しかし高齢者の保障を削る話はアンタッチャブルなのか、なかなか表面には出てきません。
私は団塊の世代に続く世代に属しますが、自分の子供や孫が生きていく将来の日本が、老人を支えるために苦しい生活を余儀なくされることは望みません。寧ろ自分たちの生活を我慢しても、若い世代の将来のためにお金を使ってほしいと望んでいます。このように考える老年者は私だけではないと思います。”老成人を侮ると、選挙で落ちるぞ”などという人がいたら、それこそ老害ではないかと思います。
私たちの世代は、戦争もなく、経済成長の恩恵を浴びるほど受け取って人生を送ってきました。こんなに恵まれた世代は過去にないと思います。受け取ったものはお返ししていくのが道理です。それが私たちができる世の中への貢献だと思います。もちろんお金だけでなく、「尊敬できるお年寄り」となるべく、精神修養にも努めなければならないことは、言うまでもありません。
【筆者意訳】「人生経験を積んだ年寄りを馬鹿にするな、孤児や幼児を弱いからと言ってみくびるな」というのは、(殷王朝十七代王の)盤庚が言った誰にでもわかる戒めである。しかし当世の才人はこの訓戒を侵している。注意を促したい。
【ひとこと】我が国は、世界でも突出した高齢化社会に進んでいます。出生率が低下し、総人口が減少していく中で、我々のような高齢者だけが増えていく社会になっています。
年金や医療費は年々増大し、国家財政を強力に圧迫しています。今年度予算ベースで、社会保障費の総額は120兆円を超過し、このうち34兆円を税金から補填しています。国の税収が62兆円ですから、この半分以上が社会保障費に充てられている計算です。団塊の世代はこれから後期高齢者になっていきますので、年金も医療費も益々増えていくことは目に見えています。とても国家財政が持つとは思えません。
現政権は、全世代型社会保障を政治テーマに掲げていますが、そもそも社会保障は金がかかるものです。どこかの保障を削らなければ他に回す原資は出てきません。その対象は高齢者であることは誰が見ても明らかです。しかし高齢者の保障を削る話はアンタッチャブルなのか、なかなか表面には出てきません。
私は団塊の世代に続く世代に属しますが、自分の子供や孫が生きていく将来の日本が、老人を支えるために苦しい生活を余儀なくされることは望みません。寧ろ自分たちの生活を我慢しても、若い世代の将来のためにお金を使ってほしいと望んでいます。このように考える老年者は私だけではないと思います。”老成人を侮ると、選挙で落ちるぞ”などという人がいたら、それこそ老害ではないかと思います。
私たちの世代は、戦争もなく、経済成長の恩恵を浴びるほど受け取って人生を送ってきました。こんなに恵まれた世代は過去にないと思います。受け取ったものはお返ししていくのが道理です。それが私たちができる世の中への貢献だと思います。もちろんお金だけでなく、「尊敬できるお年寄り」となるべく、精神修養にも努めなければならないことは、言うまでもありません。