2020年01月30日
言志耋録187条 忠と恕(その1)
忠の字は宜しく己に責むべし。諸れを人に責むること勿れ。恕の字は宜しく人に施すべし。諸を己に施すこと勿れ。
【筆者意訳】「忠」とは誠・真心のことであるから、真心であるかどうかを自分に問いただすのはいいが、人に強要してはならない。「恕」とは思いやりのことであるから、人に施すべきものであり、自分に思いやりをかけてはならない。
【ひとこと】「忠恕」を説明している条文ですね。
『論語・里仁篇』に、弟子の曽子が、孔子の一貫した生き方を、「夫子の道は忠恕のみ」と語った一節がありますが、「忠恕」は孔子の求めた「仁」の究極と言われています。「忠」とは、「中」と「心」から成り立つ字で、真ん中の心=真心のこと。自分の誠を尽くすことです。
「恕」とは、「如」と「心」から成り立つ字で、如心=人の心を推しはかる心のこと。他人の身になって思いやることです。
つまり、「忠」は自分自身に向かう心、「恕」は人に向かう心ですから、一斎は夫々の心の向け先を間違えてはならないと語っているのですね。
現代では「忠」の字は、「忠実」とか「忠誠」といった熟語として使われますので、他人に対して心から従うような意味合いで理解されることが多いかもしれませんが、本来は己の誠を尽くすこと、自分の良心に嘘をつかないことを意味する字なのです。
その心で人に接した時に、人に対しても誠を尽くし、思いやりをもって接することが出来る、即ち「恕」になるのです。
【筆者意訳】「忠」とは誠・真心のことであるから、真心であるかどうかを自分に問いただすのはいいが、人に強要してはならない。「恕」とは思いやりのことであるから、人に施すべきものであり、自分に思いやりをかけてはならない。
【ひとこと】「忠恕」を説明している条文ですね。
『論語・里仁篇』に、弟子の曽子が、孔子の一貫した生き方を、「夫子の道は忠恕のみ」と語った一節がありますが、「忠恕」は孔子の求めた「仁」の究極と言われています。「忠」とは、「中」と「心」から成り立つ字で、真ん中の心=真心のこと。自分の誠を尽くすことです。
「恕」とは、「如」と「心」から成り立つ字で、如心=人の心を推しはかる心のこと。他人の身になって思いやることです。
つまり、「忠」は自分自身に向かう心、「恕」は人に向かう心ですから、一斎は夫々の心の向け先を間違えてはならないと語っているのですね。
現代では「忠」の字は、「忠実」とか「忠誠」といった熟語として使われますので、他人に対して心から従うような意味合いで理解されることが多いかもしれませんが、本来は己の誠を尽くすこと、自分の良心に嘘をつかないことを意味する字なのです。
その心で人に接した時に、人に対しても誠を尽くし、思いやりをもって接することが出来る、即ち「恕」になるのです。