› 今日の言志四録・・知っておきたい言葉

  

2020年03月10日

終わりにあたって

皆様へ
本日をもって、『言志四録・・・知っておきたい言葉』のコラムを終了とさせていただきます。長期間に渡りご愛読いただきましてありがとうございました。
このコラムを始めたのが、昨年の3月11日でしたから、丁度一年間に渡りました。
『言志四録』には全部で1133条の条文が記載されていますが、私が紹介できたのは、そのうちの1/3の360条でした。文章や言い回しが難解で、解説を断念したものも多くありました。つくづく自分の非力を認識した次第です。
それでも、読んでくださる皆様の存在に励まされて、ここまで続けてこられたことに、唯々感謝したいと思います。

『言志四録』との付き合いは結構長かったのですが、今までは、その中のお気に入りの条文を拾い読みする程度でした。今回全文を読み通してみると、改めて佐藤一斎という人物の見識の広さ、深さを知り、新たな学びが出来たと思っています。
皆様の中で『言志四録』に興味を持たれ、より深く学ぼうという方がいらっしゃれば、私としても望外の喜びです。

さて、これからの事になりますが、少し時間を頂いて後、『老子』のコラムを開催したいと考えています。
『老子』は『論語』とは対極にある人生論と言われ、『禅宗』にも大きな影響を与えた思想です。
難解な言い回しが特徴的で、今まで手を付けられませんでしたが、いずれはしっかり読みこんでみたいと考えていたものです。
同じ「はまぞう」のポータルサイトで投稿していきますので、もしよろしかったらお付き合いください。
URLは https:/chikoraku3.hamazo.tv/ です。  

Posted by 知好楽 at 07:52Comments(4)

2020年03月09日

言志耋録340条 魂の懐に帰る

我が軀は、父母全うして之れを生む。当に全うして之を帰すべし。臨歿(りんぼつ)の時は、他念有ること莫れ。ただ君父の大恩を謝して瞑(めい)せんのみ。是れ之れを終わりを全うすと謂う。

【筆者意訳】自分の身体は、父母が完全な形で生んでくれたものであるから、完全な形で返さなければならない。臨終の時は、外のことを考えることはない。ただひたすら、父母の大恩を感謝して眠るだけである。これを終わりを全うするというのだ。

【ひとこと】『言志耋録』の最後の章です。また『言志四録』1133章の最後を締めくくる章でもあります。

旅立つ時は、何も考えずに、ただ父母から受けた大恩に感謝して息を引き取ればいいと、一斎は教えてくれます。
自分の真心に従って精一杯に生きて、死ぬ間際に”いい人生だった”と納得することが出来れば、こういう心境になれるのかもしれませんが、今の私には分かりません。しかし、そうありたいものだと思います。

沢庵禅師の詩に、「たらちねに 呼ばれて仮に 客に来て 心残さず 帰る故里」というのがあります。「たらちね」とは母親のことですが、父母と考えてもいいでしょう。
私たちは、あの世(この言い方が適切ではないと思いますが、魂の懐の意味あいで使います)から、父母に呼ばれて現世に来た。現世は魂の修養をする場所、今の姿は修養するための仮の姿であり、修養(=人生)が終われば、何事にも執着しないであの世(=魂の故里)に帰っていく・・・このように言っています。即ち現世は魂の修養の場、その場に呼んで修養の支援をしてくれたのは父母。その大恩に感謝して、父母の待つ魂の懐に帰るのだと、私は一斎の本条文を理解したいと思います。
  

2020年03月08日

言志耋録339条 旅立つ時の誠意

誠意は是れ終身の工夫なり。一息尚お存すれば一息の意有り。臨歿(りんぼつ)にはただ澹然(たんぜん)として累無きを要す。即ち是れ臨歿の誠意なり。

【筆者意訳】心を誠にすることは、人間一生涯をかけての努力である。一息でもある間はそこに一息の心があるのだから、その努力をしなければならない。臨終に際しては、ただ淡々として心に煩いの無いことが肝要で、それが臨終の誠意というものだ。

【ひとこと】『言志耋録』も最後の2章になりました。一斎80歳の時の言葉ですが、ここからの2章は、臨終に際しての心構えが述べられています。

死ぬときは、心安らかに、憂いの無いように旅立つのが肝要だ、そのためには「誠」の生き方を最後まで尽くすことだ、と一斎は語っています。

一昨日のコラムで、「誠」とは、自分自身に対しても、他人に対しても嘘偽りのない心のことと触れました(言志耋録334条参照)。これは言い換えれば、一日一日、一瞬一瞬を、自分の真心に従って精一杯に生きるということだと思います。その積み重ねが人生を豊かにし、例えやり残したことがあって死を迎えることになっても、その時までは精一杯に生きてきたという充足感があるのではないかと思います。それは自分の人生に対する納得ということになるのかもしれません。
「死に方とは即ち生き方である」とつくづく思います。まだまだ先のことだ(と思っていますが)、良い生き方をしたいと願うものです。  

2020年03月07日

言志耋録337条 生死一如

釈は死生を以て一大事と為す。我は則ち謂(おも)う。「昼夜は是れ一日の死生にして、呼吸は是れ一時の死生なり。ただ是れ尋常の事のみ」と。然るに我の我たる所以の者は、蓋(けだ)し死生の外に在り。須らく善く自ら覓(もと)めて之れを自得すべし。

【筆者意訳】仏教では死生を人生の重大事としている。自分は、「昼と夜はそのまま一日の生と死であり、呼吸もまた一瞬の生と死である。つまり死生とは日常のことなのだ。」と考えている。(そう考えると)自分が自分であることの意味は、死生とは別のところにある。是非ともこのことをよく探求して、その意味を体得しなければならない。

【ひとこと】仏教に、「生死一如」という言葉があります。生も死も一つのことで、生きるということはいつか死ぬということ、生死は切り離すことが出来ない一体であるという意味です。

地球上の全ての生物には、細胞の死というプログラムが遺伝子情報の中に盛り込まれているそうです。それは生命あるものは例外なく死を迎えるということで、地球上に生命が誕生した時から宿命づけられたもの、言わば天が計らった計画であるということです。そしてそれこそが生物・生命を豊かにしているのです。
もし死ぬことが無ければ、新たな命を生み出す必要が無く、ここまで生物は多様にならなかったでしょうし、私たちの人生も喜怒哀楽の無いものになったでしょう。

死は誰でも迎えたくないと願うものです。しかし死があるからこそ、私たちは限りある人生を懸命に生きよう、より充実した生き方をしようと努力するのだと思います。
”自分が自分であることの意味を探求する”とは、”自分がこの世に命を与えられてどのように生きるべきなのか”ということを自らに問うことですから、まさにこの努力をするということに外なりません。
限りある命を与えられた自分を受け入れ、命を全うすべく生きること。これが「生死一如」の深い意味なのだと思います。  

2020年03月06日

言志耋録334条 誠と敬を尽くす

人道は只だ是れ誠敬のみ。生きて既に生を全うし、死して乃ち死に安んずるは、敬よりして誠なるなり。生死は天来、順にして之を受くるは、誠よりして敬なるなり。

【筆者意訳】人の道とはただ「誠」と「敬」に尽きる。生きて生を全うし、死に安んじることができるのは、敬の道を究めて誠の道を得た生き方である。生死というものは天のみぞ知るもので、それをありのままに受け容れるのは、誠を尽くして敬を得た生き方である。

【ひとこと】「誠」とは自分自身に対しても、他人に対しても嘘偽りのない心のこと、「敬」とは、自分に対しては慎み深くし、他人に対しては敬うことです。

人の命は儚いものです。今日まで元気一杯で生きていても、明日が約束されている命は一つもありません。また死に方も選ぶことはできません。選ぶことが出来るのものは、死に臨む姿勢だけでしょう。
”自分は、どのような姿勢で死に臨めるだろうか?”と考えたことはありませんか?

ある臨床医が自身の著作で語っていた言葉があります。「人間は生きてきたままの姿で亡くなっていく。誠実に生きてきた人は誠実に亡くなっていく。我儘に生きてきた人は我儘に亡くなっていく」と。私はこの言葉に触れて、自分が死ぬときは我儘に死にたくはないと思いました。そしてそのためにはどうすればいいかを考えました。
結論は臨床医の観察している通り、我儘な生き方をしないということでした。それは自分に対しても他人に対しても誠実に生きる。自分を大切に思うと同じように他人を敬い大切にして生きるということ、即ち「誠」と「敬」を尽くすということだと思います。
欲はいくつになっても途絶えることはないでしょう。ですから死ぬ間際になっても、”あれをしたかった”という心は残ると思います。しかし”私は充分に、誠実に敬心をもって生きた”という満足感を抱いて旅立てるようにしたいと思うのです。  

2020年03月05日

言志耋録332条 若年期、壮年期、老年期の戒め

少者は少(わかさ)に狃(な)るること勿れ。壮者は壮に任ずること勿れ。老者は老を頼むこと勿れ。

【筆者意訳】若者は、若さに甘えて好き勝手なことをしてはいけない。壮年の者は、血気に任せて無理をしてはいけない。老人は、年老いていることを口実にして人に頼ってはいけない。

【ひとこと】『論語・季子篇』に、「君子に三戒あり。少(わか)き時は血気未だ定まらず、之を戒(いまし)むること色に在り。その壮(さか)んなるに及んで血気まさに剛なり、之を戒むること闘いに在り。その老ゆるに及んでは血気既に衰う、之を戒むること得るに在り。」という章句があります。
”人間として、人生で戒めなければならないことが三つある。青年期には血気が不安定なので、性欲を戒めなければならない。壮年期には血気が甚だ盛んになるので、闘争欲を戒めなければならない。老年期には血気が衰えてくるので、物欲を戒めなければならない。”という意味です。

孔子も一斎も、若年期、壮年期についてはおなじようなことを言っています。
若い時は元気もあり体力も旺盛だけれども、精神的には成熟できていないので、自制が効かずに暴走しがちです。それを気を付けなさいということですね。孔子は中でも特に性欲に振り回されないように気をつけろと言っています。

壮年になると、権力欲や出世欲など社会的な欲が高まります。気力・体力についてはまだまだ自信があるので、欲望を実現するために無理をしがちになります。それを気を付けなさいということですね。孔子は中でも人と競争すること・争うことに気をつけろと言っています。

晩年になると、失うものが増えてきます。一線を退けば地位も権力を失い、収入も途絶えます。更に気力・体力も衰えてきます。こうなると心細くなり依存心が出てきます。肉体的な衰えに伴って頼ることが出るのは仕方がないことですが、一斎が”年老いたことを口実にしてはいけない”と言っているのは、精神的な面だと思います。つまり、何事にも関心がなくなる、頑固になる、いい加減になる・・・こういうことを年のせいにするなということです。最晩年まで精力的に学問した一斎の気概が感じられます。
また、”頼りになるのはお金だけ”と考える人もいるかもしれませんが、年老いてからの金欲・物欲は見苦しいものです。孔子は特にそれを気を付けなさいと言っているのですね。  

2020年03月04日

言志耋録318条 養生訓(その3)

凡そ事は度を過ごす可からず。人道もとより然り。即ち此れも亦養生なり。

【筆者意訳】何事でも度が過ぎることはよくない。人として履み行うべき道も同様である。これも養生のひとつである。

【ひとこと】昨日のコラムでは、暴飲暴食、過欲の戒めについて紹介しましたが、本条文はそれを事例として、人間の生き方についての戒めを語っています。
即ち、人として履み行うべき道=人としての正しい生き方も、度を過ぎれば悪影響の方が目立つようになるということですね。

いくら”正義を貫く”と頑張ってみても、時と内容によっては融通の利かない頑固者と受け取られることもあります。自分が正しくて相手が明らかに間違っている時でも、それを理由に厳しく責めすぎれば、憎しみを買うことになります。人が共に生きていく中に在っては、”頃合い”が大切なのです。

『菜根譚』に、「身を持するは、甚だ高潔なるべからず。一切の汚辱垢穢(おじょくこうあい)をも、茹納(じょのう)し得んことを要す(処世に於いては、あまりに潔癖すぎてはいけない。汚れ穢れまで腹に納めていくだけの度量を持ちたい)。」とありますが、頃合いを見切る力量も人間力のひとつなのだと思います。  

2020年03月03日

言志耋録315条 養生訓(その2)

心身は一なり。心を養うは淡白に在り。身を養うも亦然り。心を養うは寡欲にあり。身を養うも亦然り。

【筆者意訳】心と身体は一体のものである。心を養うには淡泊、即ち物事に執着しないのが良い。身体を養うのも同様に淡泊、即ちあっさりとした食事が良い。また、心を養うには欲望を少なくするのが良い。身体を養うのも同様に過食を慎むのが良い。

【ひとこと】暴飲暴食は身体に良くない。こってりしたものを採りすぎるのも身体に良くない。素材を活かした薄味が良いようですね。元々日本人は農耕民族ですから、野菜や穀物主体の食事が身体に適しているのでしょうね。

心の養生については「小欲知足」、つまり欲望を少なくして、足りていることを知り満足する生き方がいいということですね。

身体の養生も、心の養生も、誰もが知っていることだと思います。しかし《言志耋録289条》で一斎がいみじくも、「人皆知って而も知らず(分かっていて実践しないのは、本当に解っているのではない)。」と語っているように、分かっていても中々できないのが、身体の欲、心の欲を抑えることです。逆に言えば、これがどれだけ徹底できるかが、人間としての成長度といえるのではないかと思います。  

2020年03月02日

言志耋録303条 任重くして道遠し

任の重き者は身なり。途の遠き者は年なり。重任を任じて、而も遠途に輸(いた)す。老学尤も宜しく老力を厲(はげ)ますべし。

【筆者意訳】責任の重いのは我が身である。その重い責任を背負って行く道の遠いのは歳月である。つまり人は重責を背負い、遠い道のりを歩んで、目的を果たさなければならないのだ。自分は老学者であるが、この老いた力を励まして、死ぬまで精進する覚悟である。

【ひとこと】『論語・泰伯篇』に、「曽子曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。また重からずや。死して後已む。また遠からずや。」という章句があります。”曽先生が言われた。道に志す者は、広い心と強い意志を持たなければならない。指導者の責任は重く、進む道は険しく遠いからだ。その重責を担うに当っては、仁の心(利他の心)を根本に据えて臨まねばならぬ。何と重いことではないか。しかもこの重責は死ぬまで続く。何と遠いことではないか。”という意味になりますが、一斎の本条文は、この章句を元に語られたものと推察します。
徳川家康も『論語』の本章句に触発されて、「人の一生は、重荷を背負いて遠き道を行くが如し・・・」という遺訓を残しています。

人生の大目標を掲げた人物は、目標の高さ故に”孤高”の人となりがちです。それを支えるのが”使命感=天が自分に与えた使命を果たす”という信念でしょう。本条文も、論語も、家康の遺訓も、その使命感がひしひしと感じられる文章です。
一斎は、生涯をかけて学ぶことの大切さを説き、自身もそれを実践しています。その強い意思が現れている条文だと思います。  

2020年03月01日

言志耋録295条 心志を養う

心志を養うは、養の最なり。体躯を養うは、養の中なり。口腹を養うは、養の下なり。

【筆者意訳】心を養う(精神修養)のが最上の養生であり、身体を養う(健康管理)のは中策の養生で、口や腹を満たすのは下策の養生である。

【ひとこと】私たちは、本当に豊かな時代に生きているのでしょう。TVの番組やチラシ、NETでは、グルメ情報が溢れています。報道された店は、入店待ちの客の長蛇の列ができるとか・・・これは口腹を養うの典型的な事例でしょう。
高齢化社会の反映でしょうか。世は健康食品ブーム、やれグルコサミンだコンドロイチンだ、健康食品の販売CM盛りです。またエアロビクスやヨガなどのフィットネスの教室も盛んです・・・これは身体を養うの事例でしょう。
しかし、私の主観的な見方かもしれませんが、心を養うことに関しては、TV番組やCMでも、教室の講座でもあまり見かけないような気がします。私としては少し寂しい気持ちがします。

人生を豊かにする意味では、グルメも結構、身体の健康も大切です。しかし心の健康も同じように大切だと思います。身体を健康に育むためには、食事と運動が必要であるように、心を健康に育むためには、教養と思索が必要なのだと思います。「心志を養う」ことがもう少しクローズアップされることを期待するものです。