言志耋録337条 生死一如
釈は死生を以て一大事と為す。我は則ち謂(おも)う。「昼夜は是れ一日の死生にして、呼吸は是れ一時の死生なり。ただ是れ尋常の事のみ」と。然るに我の我たる所以の者は、蓋(けだ)し死生の外に在り。須らく善く自ら覓(もと)めて之れを自得すべし。
【筆者意訳】仏教では死生を人生の重大事としている。自分は、「昼と夜はそのまま一日の生と死であり、呼吸もまた一瞬の生と死である。つまり死生とは日常のことなのだ。」と考えている。(そう考えると)自分が自分であることの意味は、死生とは別のところにある。是非ともこのことをよく探求して、その意味を体得しなければならない。
【ひとこと】仏教に、「生死一如」という言葉があります。生も死も一つのことで、生きるということはいつか死ぬということ、生死は切り離すことが出来ない一体であるという意味です。
地球上の全ての生物には、細胞の死というプログラムが遺伝子情報の中に盛り込まれているそうです。それは生命あるものは例外なく死を迎えるということで、地球上に生命が誕生した時から宿命づけられたもの、言わば天が計らった計画であるということです。そしてそれこそが生物・生命を豊かにしているのです。
もし死ぬことが無ければ、新たな命を生み出す必要が無く、ここまで生物は多様にならなかったでしょうし、私たちの人生も喜怒哀楽の無いものになったでしょう。
死は誰でも迎えたくないと願うものです。しかし死があるからこそ、私たちは限りある人生を懸命に生きよう、より充実した生き方をしようと努力するのだと思います。
”自分が自分であることの意味を探求する”とは、”自分がこの世に命を与えられてどのように生きるべきなのか”ということを自らに問うことですから、まさにこの努力をするということに外なりません。
限りある命を与えられた自分を受け入れ、命を全うすべく生きること。これが「生死一如」の深い意味なのだと思います。
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